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2014-04-19

雨上がりの午後、ネギ坊主と雑草取りに精を出し、思う。

ヒアルロンサンたっぷりのネギ坊主
私が藤原新也さんのWMの読者であることは、五十鈴川だよりを読んでくださっている方は御存じだと思います。(20代の終わり、新也さんの本を読まなかったら、富良野で頭を冷やすことはなかったと思う)

世間の、小保方さんのメディア会見でのことに関する、投稿がたくさんWMに掲載されていて、それに目を通すだけでも、かなりの時間を取られたが、なんとか読みました。

私がほんのわずか、岡山を留守にして、一切の情報から遠ざかっている間にも、かまびすしく、あらゆる報道が、あらゆるメディアでなされていたのだということ、の当たり前を知り、いささか確実に以前の自分のようには、関心を持てなくなっている(もたなくなった)、自分がいる。

それはなぜなのだろうと、早急に結論を急ぐ必要もないのだが、私個人はスタップ細胞や最先端科学(化学)というものに、あまり関心がないというか、年齢的なこともあるかもしれないが、永遠の生命とか、若返るとか、美しいお肌とか、そう言ったことに興味がわかないのである。

終り(終わりとは何かという問いはひとまず置いといて)があるから、素晴らしいと言う側に、私は立つものである。しわだって美しく、時に私は感じる。顔をはじめ生き方は、細胞にでる。いくら、お金をかけて、細胞に擦り込んでも、無駄なものは無駄である、そんな気がする。

生の輝きは、やがて死ぬということを、意識できるからこそ、輝くのではないかという側に、私は立つのです。若いころ、ただ働いて、あこがれのヨーロッパやアフリカにゆくこともなく、一生を終えるのかと考えた時、居ても立っても居られないくらいの、気持ちに襲われました。

将来、どんなに苦労しても、行きたいところにはいってから、悔いなく死を迎えたい(正直そこまで深刻には考えていないから出来た、それが若さです)とまあ、そんなことをノー天気に考えていました。

話は変わり、昨日の午後、雨が上がって畑にゆき、葱畑の雑草取りと、ネギ坊主採りに精を出しました。農薬を一切使っていないので、雑草の伸びる勢いには、たまげてしまう。根気強く、辛抱しながら、休み休み4時間近く続けたのだが、雨上がりで涼しく、かなり作業がはかどった。

地から浮き上がったかのような、都会発の喧騒メディアにはほとほと背を向けたかのような、の私の静かなくらしだが、何の不都合もない。人工的な物音一つしない畑、雉や野鳥の声を聞きながら、ただ淡々と身体を動かして、手ごわい草や、ネギ坊主(匂いがすごい)と相対する時間。

人間が仕組んだ世界とは程遠く、一喜一憂しない世界の側に身を置き、私は人生の歩みを終えたいと、還暦を境にしきりに考えるようになってきた。

40歳で都会を後にした私だが、その念いはますます深まってゆく。命に対する畏敬の念が希薄になってゆくにつれ、社会はからからに乾き、人心砂漠化してゆく。太古に静かに思いをはせる。現代時間に、足をからめとられる、愚は避けたい。スマートフォンは深呼吸しない、食えない、命がない。

みずみずしい、雨上がりのむっとする草たちの生命力にあやかりながら、私は手足を動かす。畑は私にとって、修行(業)、言葉がいかめしいが、行いを修めてゆくところのような気がしている。

可能な限り、みずみずしい、ブログでありたい、隠居まで。家に帰って、ひと風呂。満足である。


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