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2014-04-18

足元のネギとともに、今を耕し、ほのぼの感にひたる。

畑にとっても、私にとっても恵みの雨となった朝、やはり何か書きたくなる私です。
珍しく小説を読んでいます

働くということは、なんてことを、この年齢なりに(なっても)考えてしまうようなことがやいまだあります。朝一番に書くことは、野暮この上ない気もしますが、18歳からの世間の荒波を何とか、くぐりぬけ生き延び、現在畑にたどり着いた私が、今思いいたれること。労働の苦喜楽について。

深く思いを伝えるべく書きたいとは思うのですが、長きにわたって私のブログを読んでくださっている方は、分かってくださると思うので、よすことにいたします。相当書きこまねばならないので。

さて雨が上がったら、ほんの少しの時間畑に行ってみようかなと思う自分がいます。仕事とは関係なく、何とはなしに畑がだんだん気になってきつつある自分が育ってきているのです。たった半年ですが畑にいる自分が、ことのほか愉しいのです。

自分が開墾から関わった畑にネギを植え、そのネギが成長してゆき、やがて出荷してゆくまでの一連に関われるということは、私にとっては仕事で、生きる糧を得ることもさりながら、それだけではない価値が、十二分に含まれていることを、実感しています。

根を生やし、命を天に向かってつきあげるネギのエネルギー、雑草を含めた、あらゆる畑の周りの、春の生命力の爆発には、まったくもって、脱帽いたします。人間のいい意味での爆発する力はどこへ行ったのでしょう。あやかりたいものです。

私は、おのれの枯渇寸前の身体が、何やら若々しく生き返ってくるかのような錯覚を時折畑で感じることがあります。柄にもなく、命の不思議に感じ入ってしまうのです。こういう感覚を持てているときの自分はほのぼの幸せ感に、浸れます。

62年かかって、何やら臆面もなくおのれの現在を、厚顔無恥に書けることに関して、これはもしかして夢では、なんてことを冗談にもせよ思う時があります。

私ごときの、人生でも山あり谷ありでしたので、ことのほか素朴に、謙虚に感謝する自分がおります。人生一寸先のことは、分からないのですが、ともあれ見果てぬ先のことよりか、足元のネギとともに在る自分を確認する。

一日、一行、何やらを行い、ひっかき耕す。お開き。



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