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2014-04-20

おもわぬA専務による春の青空農業講座(撮影N氏)

昔から、春眠暁を覚えずという。まさにそんな感じで、なんと9時間半も布団の中にいて、先ほど起きた。目を庭に転ずるとどんよりとした曇り空である。幾分肌寒い。だから、背中の近くでかすかにストーブで、団をとりつつブログを書いている。

私は、眠るのが大好きである。気持ちよく眠りに落ちるためには、余計なことにはなるべく関わらず、ひたすらよく体を動かし、(酷使しない程度に)体液の循環を良くし、ほどほどのカロリーをきちんととり、つましくも愛のある環境ですごす、ということが肝要だと、思い知る。

本当に、不完全な生き物である人間は、歳を重ねてゆくことが、ややこしくも難しい。ヒトは、他者の人生ではなく、自分の限られた人生しか生きることができないのだから、自分を通して、他者の人生を、おもんぱかるしかない、という限界を生きている。

朝から、何やらこ難しいことを書いているが、身体が限りなく朝型脳になっているから、御勘弁してほしい。夕方からではとても、身体がややこしことに関しては、思索放棄状態になるのを私は自覚しているので、もうアカンと思ったら、私はひたすら眠るのである。

悲しいけれども、自分の人生をしか、ヒトは生きることができない、ヒトの心の闇の奥深くまでは、理解できず、自分の心の奥深くまでだって容易にはたどりつこうとさえヒトは、なかなかにしようとはしない。だから、ヒトは関係性の中で演技するというスキルを身につけつつ、この複雑怪奇化してゆく世の中を、なんとか生きているのではないか、というのが現時点での私の認識である。

かくいう、私もなんとか演技をするという、いわゆる処世術を身にまとい、なんとかこの年まで生き延びてきた、という実感を持つ。そして今、この年になり思うのは、今後は限りなく演技なしの生活時間を、過ごせるものなら過ごしてゆく生き方を、と願わずにはいられないのだ。

だから、今、日中の大部の時間を畑で、演技しない植物たちと過ごしている今が、ことのほか充実しているのである。経済大国、技術革新の、なれの果ての結末の行方は、SF小説なども予測できない、展開を帯びるのではないかという気が、個人的にする。

このように書いてゆくと、限りなく暗くなりそうなので、いきなり、いつものように話は変わる。昨日畑に、いきなりA専務が現れ、私とN氏で、春の陽光を浴びながら思わぬ、A専務の農業への思いを聞く時間が持てた。


フカフカ絨毯のような牧草の上に座り、専務が持参したエクレアを頂きながらの、つかの間の人生途上農業講座となった。専務自身も試行錯誤の現在の農への思いの渦中を、虚心坦懐に語ってくださったので、働かせて頂いている我々としては、春の空のように、なにかが吹っ切れ心が晴れ晴れとした、畑ミーティングとなった。会議室ではこうはゆかない。

ことほど左様に、天と地は、あらゆる垣根をいともたやすく取っ払う。企業人として、わずかではあれ、従業員の生活の安定をはかるべく利潤を出す、狭き門を歩む覚悟をされている。それが伝わるのである。

なんとか、いいネギを生産し出荷するためには、よく寝て身体のコンディションを整え、可能な限り畑で良き、時間が過ごせるように、N氏とともに汗が出る間は、動き回りたいと思わずにはいられない。

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