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2014-04-07

穏やかな春の日差しが庭先に降りそそぐ朝に思う。

謙遜でもなんでもなく、軽佻浮薄を自認している私だが、歳とともに少しは重く、厚くなれるものなら、なりたいという明るい煩悩のようなものがいまだ止まない。

DNAは不変ではあれ、三夜も見続けた、細胞の神秘、今現在の最先端の番組は、命の神秘の不思議に、思いをあらためて至らせた。だから、朝からこんなことを書いている。

ご覧になった方も多いと思うが、今朝はそのことに関しての感想は、まとまらないので触れないことにする。ただ、生き続ける意味の確認として、死は神の領域であり、事故とかではなく、寿命という意味での、死を迎えるための生を全うする、、、。

帯津先生のように、私くらいの年齢になったら、日々死についてささやかにいくばくかの思いを巡らすような生き方を心懸ける、と、何とはなしに日常が、新鮮に感じられるような気が私はしている。

それは、愛おしき感情としか、言葉にすると言えないような感覚なのだが、センスオブワンダーな世界を、感知する力をなくしたくはない、との思いである。
妻の大切なミニガーデン

何かにすがるような感覚で、何かを綴りたい(うまい下手ではない)という、私ごときのブログでも、何故湧きいずるのかは、以前も書いたが、遺伝子がそうさせるのか、よくは分からないのである。

その生命感覚の、不思議さは、いとおかし、もののあわれ、というしかない。福岡伸一さんの本によれば、37億年の生命の歴史の中での人類の歴史は、ほかの何億年も変わらないゴキブリなんかに比べれば、人類はまだ新参者にすぎないということ、らしい。

この数10年のハイテクの驚くべき進歩、科学物理をはじめとする、あらゆる分野での新たな発見が、かまびすしく伝え知らされるが、知れば知るほどに、未知の領域が広がるという逆説。

人類の抱えている哲学的苦悩はいまだ止まない。だからこそいきることが、素晴らしいのではないかという気が私個人はしている。


2個の細胞が分裂を繰り返し、60兆の細胞になり生命体を生し、やがて寿命となす大いなる旅。身体は宇宙そのもの、その生命はあらゆる生命体とつながってこそ、在る。野暮な言葉は空しい。

書きながら、庭先に眼を転ずると、昨日とはうって変わってやわらかな朝日が万物に降り注いでいる。穏やかな静けさは、まるで浄土を思わせる。







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