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2022-04-22

人は出会いと別れを繰り返し、それぞれの居場所で生きる、そのようなことを想う朝。

いよいよ明後日に迫った。 秒読みにはいったなあ、という感慨が今朝の私にはある。朝といっても私にとってという意味で、ほとんどの方は起きてはいないだろうが、もうこんなに早くから、五十鈴川だよりを打っている私とは、いったい何者なのだろう。なにかが私のなかに棲んでいて、たぶんそのなにかが闇と静かな時間帯に、交信を迫るのだ。

もう本当に何を打つのかなどはとんと考えたこともない。あるがままに、わが体のなにかが流れてゆくように一文を綴れることが、精神の健康法として欠かせなくなってきているのは、まず間違いない。毎日打つのは大変だという気もするが、たぶん24日を終えるまでは打ち続けるだろう。終えたら少し休むだろう。

一晩休んでいるからこそ打てるのだ。明らかに昨日の体、一月前の体、二月前の体とは異なっている感じはあるが、企画を発心してから当日を迎え終えるまでは、ピーンと意識が起きていて張りつめてはいないが忘れてはいない。終えたらきっと暫し放心状態になるかも知れない。がそれもまたよしである。

妻が生けた我が家の撫子

話を変える。今回意外なかたからの応援もあれば、まったくとんちんかんな、人の痛みを想像できない、こういう方とは人生であまりご一緒したく思えない方からの応援もいただいたりして、内心複雑な気持ちになったりもする。

なん十年も、付かず離れずほどよき関係性が持続するのは、よほどなにか目に見えない糸で結ばれていると言う他はないのだが、こちらはもう違う次元に向かっているのに、昔の私とのご縁関係から抜け出していないかのような御仁がおられるのには、ちょっと閉口するのだが、こればかりはいかんともしがたく私を困らせる。

それぞれがそれぞれの人生を歩むしかないのが、言わば摂理。いざというときの行動や発言によって、その人の普段は表に見えない面が見えたりしたときに、興醒めしたりすることがある。とくに私のように、人を見る目がないそこつ者は、多々そういう経験を今もしている。

もうあまりそういうことには関わりたくない人生時間を、古希を節目に私は送りたいと、今はっきりと五十鈴川だよりに打っておきたい。単純なことである。続く関係性は続き、疎遠になる方とは疎遠になる。ただそれだけである。

それにしても想う。人間とはかくも意外性に満ちた面白き、悲しき、寂しき、そして悲喜こもごもいとおしい存在であるかということを、今回の企画でおもい知らされている。ウクライナという国の響きは、限りなく島国に育った私にはどこか魅力的に響く。それがなぜなのかはわからないが、今回古希を迎えて10年ぶりにウクライナの音楽家、カテリーナさんを企画できたことは、きっとこれからの人生時間をささやかであれ、豊かにしてくれることは、間違いない。

人は出会いと別れを繰り返し、螺旋状に進む。たとえ波長が響き合わなくなったとしても、それぞれの居場所で生きられればそれにこしたことはないと私は考える。人は孤独を抱えて自立し、他者との響き会う存在、関係性のなかで、適度な距離感を保ちあえるのが今のところ私には一番望ましい。それは夫婦、親子関係でも同じである。一回生の時間、瞬時の旅、いかに生きるのかは各々考えるしかない、だから打ちつつ考えるのだ。


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