ページ

2022-04-10

桜が満開の春、無数の死者たちを追悼する演奏会を企画しないと、私の心は晴れない。

 一気に5月のような陽気に包まれている昨日であったが、今日も暑くなりそうである。普段アウトドアで働き、たぶんに普通の人よりは紫外線を浴びているはずであるから、土曜日曜は努めて、インドアの生活を心かけている。

やはり年相応に老いてきているのを実感するのは、昔と違って現世的な欲望や嗜好品的なものに、とんと執着しなくなってきつつあるような気がしてどこか不味いなあとは思っているのである。だが、今回のカテリーナさんの企画では、老いつつある自分がまるで、10年若返ったかのような動きを体も心もしているかのような自分だが、錯覚であってほしい。

何せ、10年ぶりの企画であり、10年ぶりのチラシ配布などをやっていて思ったのは、明らかにアナクロ的で、もう自分はまったく時代の表の渦中には、存在していないとでも言うしかない厳然たる事実である。だが、である。このような私の思い付きや行動をこのようにも、応援したり、陰で支えてくださってくださっているこの事実は、いったい何なのだろうといった感慨もまた新たに、予期しなかった新鮮な出会いが、老いの体に潤いを与えてくれている。

つくづく思うのは、昨日も打ったが、生きているからこその果福とでも言うしかない喜びを、今回の企画は改めて私に教えてくれている。10年間のブランク、その間に時代の様相はすっかりと様変わりしてしまったのだが、そして私はどこか厭世的な気分で静かに青空のしたで生活していたのだったが、皮肉にもロシアのウクライナ進攻は、古希男の眠っていた血をどこかで呼び覚ましたのだとしか思えない。

ちょっとオーバーワークではあるとおもいながらも、白昼夢でも見ているかのような映像、を見てしまうと、いまだ私の心はどこかしらが疼くのである。だからなのだろう、五十鈴川だよりを打ち続けるのは。生物兵器、化学兵器、最後核戦争にまで万が一及ぶことになったらと、老婆心的な、悪夢の到来は死守しないと、決定的に不味いという老いの本能が、不安が五十鈴川だよりを打たせるのである。

今朝を生きる

そのようなことはすべて杞憂であってほしい、杞憂であらねばならないという内なる不安が私をして、アクションに駆り立てるのである。人間はかくも戦争という病に取りつかれているという他はない。他者を殺して痛め付けて平気で生存できる感覚は、悪魔の所業である。

満開の桜の下には、無数の死者が眠っているという。ならば一人夜桜、無数の死者たちに想いいを馳せ追悼するチャリティー演奏会をカテリーナさんをお招きして企画しないと、私の心は晴れないのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿