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2022-04-16

チャリティ演奏会24日まで、もう後わずか一週間前の土曜日の朝に思う。

 嬉しい土曜日の朝である。70歳のいまも元気に労働し、からだが動き、美味しくご飯がいただける。大切な家族があり、大切な友人が、知人がいる。くだらないことを自由に言いあえ、困ったときにはいろんなことを相談できる人がいる。在りがたい、その事の重さが今回の企画をささえている。24日までもう後わずか一週間。じっとその日を待つ。気は抜けないが、私のいまの気持ちは静けさに満ちて穏やかである。ほぼ毎日ウクライナのことを想う。

18才から世の中に出て、お金にはとんと縁のない暮らしをし続けたお陰で、お金を大事にしか使えない暮らしを、ほぼ半世紀続けてきたお陰で、もっと書けば幼少の頃からほとんどおこづかいももらえないような家庭環境を生きてきたがために、嫌でもお金を大切に使う、使わざるを得ない、言わば耐性感覚、修行感覚のようなものが、未だに私には色濃く残っている。

深く考えるあれやこれやの石橋型ではけっしてこのような企画は打たないだろう。生きるための生活の糧の大部分はいまも、自身の肉体労働によって成り立っている。地に足のついた生活の果てに、時おり老いゆく我が身にかなり負荷のかかる企画を打つのは、かなり骨であることは充分に承知しているが、いまやらずどうするのだといううちなる声が、からだの中で沸き上がるのである。語弊を恐れずに打てば、重い荷物のあれやこれやを自分に課して、抱えての企画こそが、面白いのである。通じ会える仲間とのマイノリティ企画をこそが、毛細血管企画をこそ私はやりたいのである。

22年前東インドで求めたハクシャさんの絵

コロナ渦中なのでこの数年、大好きな旅もほとんどしなくなった、できなくなったがために、お金を使うことがない生活を私は送っている。だからというわけではないが、いざというときに動けるお金、ささやかな私は余裕があるのである。無謀な若さはないが、無謀を支える余裕はあるのである。だから企画するのだ。

そして何よりも普段から考える余裕が、とくに術後あったがために今回の企画を発心できたのだと思える。すべては青空の下での肉体労働のお陰なのである。その事は私が一番承知している。風通しのいい体からしか風通しのいい企画は浮かばない、思いつかないのだと改めて思うのである。

きっと中世夢が原の企画も星空、青空のしたで働いていたからこそ企画が実現したのだと思う。オーバーではなく、小賢しい私の頭ではなにも思い付けなかった、きっと天が味方し、見えない死者の霊が私の背中を今も推してくれているからこそ、きっと企画が打てているのだ。

充分に若くはない私だが、ありがたいことに、この上なく元気で生活を送れている。手術後、一切お酒を口にしなくなったので、ますますお金が必要のない生活へとシフトしていっている。運気の歯車、すべてのタイミングが揃わないと今回のような企画は、天が私にもたらしてはくれなかったのだと、目には見えない摂理の奥深さに謙虚になるのである。

ゆったりと落ち着いた、精神的な余裕のない生活からは(お金のあるなしではない)、他の方は知らないが私には企画は打てない。企画をするということは、動いて他者に働きかけ思いを伝え共感していただくことにつきる。私の企画をこんなにも支持してくださるかたの存在の多さに、嬉しく正直驚いている。

あだやおろそかなことはできないと、天ノ下で反芻するのである。。何よりも頭とからだ、想像する、意外なことを思い付く、少々やけどするかもしれない企画が打てるのは、多くの支えてくださるかたががいるからである。その方々が勇気を与えてくださる。その方々の存在のお陰で企画が成立する。感謝しかない。

できたレールを細心の注意をもって安全に行うのは、プロのイベント企画会社に任せればいい。そのようなことを私はやったこともないし、やれもしないし、興味もない。私が一番面白いのは、私の人生をより良く生きるために、身銭を使って旅をするかのように企画することである。

未知の世界をおもいつくまま旅するかのような企画である。皮肉なことにウクライナでのあまりにも痛ましい出来事が起こらなければ、私は安穏とした浦島太郎的な静かな隠居生活に埋没していたかもしれない。

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