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2022-04-20

地獄の黙示録から目をそらさず、五十鈴川だよりをうちながら思考する静かな春の朝。

 もう4月の下旬、24日まで秒読みの段階である。夜9時以降のテレビ他いわゆる画面をほとんど眺めない暮らしを続けてもう何年になるだろうか。とくにこのところの、手術後の一年はますます、画面を眺めないようになってきているのは、明らかに老化現象なのだろうと言う気がしている。

世の中の移り変わり、時代のすう勢、流行りもの、ファッションなどなどに、とんと興味がなくなり、どこかでは不味いとは思わないでもないのだが、限りなく自分に正直に存在してゆきつつ、ある日突然宇宙の塵と化したいと願う私としては、どこかで今の生活に満足しているのである。

ただウクライナでの世界を震撼とせずにはおかない、核戦争にも及びかねないほどの非常事態にたいしては、老いのみを忘れて、一人の人間としてノーの声を挙げないと、一生悔いが残ると、取り組んでいるだけである。

ウクライナの絵本素晴らしい

この世に存在する信じられないほどの、ほとんど生きた情報として日本のお茶の間には届かない世界の民の困窮者のことを想うと、我が身のあまりのつつましくも充たされた生活に安住していていいのかと言う、うちなる声が微かに聞こえる。

たぶん、その限りない後ろめたさの自覚が私のなかにあるからこそ、今回の10年ぶりの企画を発心したのだと想う。この年齢になって今さらに想うことは、無知の世界に安住し己の世界ばかりを正当化する愚者たちのあまりの、無責任な大人、とくに政治家財界をはじめとするこの半世紀の日本の大人たちの姿を、見続けて来た私は、ああはなりたくないと言う、おもいをどこかに抱きながら今も生きている。

話を変える、手術後のわたしは、再び命が与えられたのだとの思いをどこかに感じながら、その事に感謝しながら日々の生活を送っている。あの管をぶら下げての入院生活のこれまでの人生で味わったことのない、わが命と向き合った時間は、今思えば宝と言う他はない。

生きているだけで、歩けるだけで、家族があるだけで、もう十分なのである。以来現世的欲望は限りなく減り、現世ではなく限りなく死者の側から物事を考えるようになってきている今、ウクライナでの戦争が起こり、今も続いているのだ。だから考えるのだ、なにができるのかと。

なぜ、かくも不条理に満ち満ちた世界は終わらないのか、朴念人の私には遠く理解が及ばないが、無関心無知こそが悲劇の根底にあるのではと、思えてならない。それと愛と想像力の欠如。自分の大切な人の命が奪われたら、いったい全体自分はどうなるのかと言う感覚の欠如。

たぶん、ウクライナでの戦争が出来しなければ、古希を迎えたこの体で、こんなにも五十鈴川だよりを打つことはなかっただろう。平和でなければ演奏会など企画できはしない。ウクライナの劇場や、病院や、学校、人間生活には欠かせない建物が、インフラがかくも無惨に破壊され、人々は命を抱えて地下での困窮生活。麻痺してはならない、明日は我が身にも起こりうるのだという事を。

それが普通に想像できなくなったら私は企画はやめる。地獄の黙示録が迫っているのではというという危機感、それが杞憂であってほしいと願わずにはいられない。

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