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2012-05-31

新藤兼人監督の冥福を祈ります


いま呼んでいる本

昨日、新藤兼人さんが100歳でお亡くなりになった。また一人、巨星が去った。好き嫌いを超えて、偉大な映画作家が姿を消した、もうこのような映画人は出てこないと思うと、やはり何かさみしく、時代の終わりを強烈に感じる。



私はあまり新藤監督の作品を見てはいないのだが、26歳、ロンドンで見た、裸の島は・無言の映画で強烈な印象を私に与えた。いきなり画面に現れた、地を耕し天に至る、という言葉は今も脳裏に刻まれている。殿山泰司、乙羽信子、もうこのような俳優もいなくなった。



夢が原で働くようになり、歳と共に、世の中がIT時代になろうが(ある意味で、時代と逆行するかのように)その言葉はいまも、私の中に住んでいて、人間は大地から離れたら、やがてはいびつな存在になってゆくという、箴言として受け止めている。



安全な、大地、空気や水や光、無くして人間は生き物として存在しえないという、当たり前のことに思えることを考える、感じ取る、感性力が、本当に弱くなってしまった。(私も含めてです)文明人というと呼ばれている我々は、思考停止といって差しつかえないほどに、考えなくなってしまった。そう感じているのは、わたしだけではないとおもうけれど、少数者であることは確かだと思う。生きている人間の顔に力がない。



時間というかけがえのないものを、わたしも含めてのことだが、お金という魔物で、消費するということにかまけていて、地に足のつかない、浮ついた時代を、夢遊病者のように、漂流しながら自分と向かい合うことなく、情報に踊らされているという、懸念がどうしてもわたしはしてしまう。



危険な、自分に自信のない(自分で考える、物差しがない)人々が大人の中にわんさか増えているような気がするのは、わたしだけだろうか。通勤電車の中で眼に入る、他者の存在にまるで無関心な様子の人々の顔。他者は私の鏡である。私もあのような顔をしているのではないかと思うと、ゾッとしてしまう。



偉大な芸術家というものは、ヒトが忘れてしまうことを、決して忘れないヒトのことです。いきいき遊悠塾では、私がこれはと思える作品も上映し、日高事務所でも日高と共に映画を見る時間を、定期的にやりたく思います。新藤監督をはじめ、すぐれた映像作家を。さしあたり、百花プラザにはDVDを上映する部屋があるので、日にちを押さえ、告知は五十鈴川だよりでしますから、なにはともあれ、一人からでも始めたく思います。人が集まりやすい、日曜日の午後にします。

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