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2012-05-17

何故今、日高塾を始めるのか


同じ人間の、極めて狭い行動範囲の、日々の移ろいを、ささやかに意識することで、おなじようではあるけれども、毎日新しい一日を、可能なら少しでも、豊かに彩りたいという、極めて自己満足的、ブログを2年半以上書きつづける中で、私自身が変化し、新しい自分がかすかに見えてきたような気が最近いたします。



それは、極めて謙虚な自信のようなものです。例えば、今でも私はITが苦手です。ブログを書きはじめた時、まるでキィが打てませんでしたが、最近は左手でも随分打てるようになりました。53歳から韓国語のいろはを学び(来年からまた、新たに始めます、何せ時間ができるのですから)なんとか昨年弁論大会に出ることも叶いましたが、老いてゆく中での、自分自身との向かい合いを楽しみたかったのです。



ことほど左様に、歩みは遅くとも、年齢を重ねても、人間にはいろんな可能性があるということに、私自身が気づかされているのです。可能性の扉をこじ開ける、きまりきったかのような日常(ではないのですが)、自分自身に新鮮な風を入れる、こと。


大崩山(おおくえやま)山頂にて

ヒトはよく、自分で自分自身の可能性を閉ざしがちになる生き物であるという気がします。若いころの私がそうでした。自分には才能がないと思うのです。が果たして、才能とはなんでしょうか。そのことを、いまだ私は考えます。18歳で夢だけを頼りに、世の中に出た私ですが、ご多分にもれず、まったく自分には才能がないという思いに打ちのめされました。



今思います、私に立った一つささやかに才能が与えられていたとしたら、何かに感動するということの感覚があったということなのだと、最近思うのです。スポンジのように柔らかい心で、森羅万象に反応するということ。それがなくなり身も心も乾いて、カサカサになると、人生をあえて別な方向へと変えてきたように思うのです。



そして、還暦にしてまた新たにその時が来ていることを、本能的に感じるのです。生き生きヒダカ塾は、参加される方がいれば一人から始めようと思います。一クラス15名、以上は無理です。



よくどんなことをするのですかと聞かれるのですが、一言でいえば(基本は声を出し、体を動かすのですが)私と共に遊ぶための塾です。自分自身を開放し、老いてゆく時間の中で、自分自身の可能性を見つけるための塾です。参加される方と共に、何かを創りたく思います。名称は・生き生き遊悠塾・です。




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