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2012-04-26

桃山さん土取りさんのお弟子I氏我が家に泊まる

桃山さんの御本

昨日は我が家に、岐阜の郡上八幡に住む、土取利行さんのお弟子さんであるI氏が岡山にやってきて我が家に泊まった。仕事を終え、知人との夕食の約束を済ませ家に帰って、10時過ぎから、夜長話が始まった。



私の半分くらいの年齢だが、充分に話が弾み、普段は10時には床に着いているのに、何と午前1時過ぎまでいろんなことを話し、疲れているはずなのにいつも通りの時間に眼が覚めそのまま起きて、働かない頭でブログを書いている。



土取利行という、稀代のどこにも属さない、孤高といっていいアーティストに弟子入りするというのは、生半可な覚悟ではないはずだから、どのような人であるのか、私自身も一度二人だけでゆっくり話がしてみたかったので思わぬ時間が持てた。



真摯に時代を見据えながら、平坦な道を選ばず、自分の感性に忠実に生きている姿勢に今時、めずらしい印象を持っていたのだが、まさにその通りの純粋さをキープしている若者だった。私もかっての若者として、還暦の自分はさておき、今を生きるヒト対ヒトという感じで、世代を超え話ができたことは、これからの再出発を念じている私にとっても実に有意義なひとときとなった。



どのような人間であれ、普通に暮らしていれば生涯には必ず何がしかの転機が訪れる。世代も年齢も異なるとはいえ、お互いに転機を迎えているという意味では、共通の何かがあって、話が弾み転がったのだと思える。あまり寝てはいないのだが、今日もいろいろと新しいこれからに向けて、休日だからこそやらねばならぬことがあり、身体をさわやかな気が包んでいる。



人間が一人でやれることはたかが知れている、とは思うものの真の意味で自立した人間になるというのは、生半可な覚悟で成就出来るものではないことは、私ごときでも少しは承知しているつもりである。そこで、いまだ私は考える。どのような道を選ぶのかということを。安全な未知か険しい未知か、そこで全人格がおそらく何者かに試されるのではないかというのが、ようやくいま現在考える、私の認識である。



ヒトとして生まれ、どのように人生を刻んで歩むのかは、まさに謎を生きるということに他ならない。I氏とは今後自立し連帯する仕事仲間になる。そのことが確認できた夜となった。芸能の根源を見つめる企画を、お互い世代を超えて切磋琢磨し合いたいと思う。


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