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2014-05-09

何か役に立つ、記憶の中の爺さんたちのようになりたく思います。

昨日のブログが今日のブログを書かせてしまう、何やらそんな按配の五十鈴川だよりになってきつつあります。日々の移ろいの、精神と体の調整役てきになってきているのだ、なあ、とまあそんな感じ。
GWが終わり、いよいよ畑は初夏のモードに入ってきました。五十鈴川で、お清めをしてきたせいでしょうか。何やらすこぶる体調がよく、睡眠時間が少ないにもかかわらず、身体がよく動き、暑くなってきたなか、昨日も畑でかなりの肉体労働をしましたが、年齢を忘れるくらい、身体がよく動いてくれています。

いつの日にか、きっと身体は五十鈴川で泳げなくなるとは思いますが、五十鈴川に浸かるくらいのことができる間は、今しばらく生きている実感が伴うような仕事に、汗を流したくおもいます。

今回の帰郷で、姉の孫二人とわずかな時間を持ちましたが、お年寄りの役割のようなことを、以前にもまして、感じてしまう自分がおりました。子供というものの無限の可能性の豊かさを、ほんのわずかではあれ、伸ばすような爺さんを目指したいものだと、私は思いました。

子供にとって、記憶に残るような爺さんになりたいと思ったのです。小さいころにやった、川遊び、石投げを、8歳の子供とやったのですが、62歳の歳を忘れて、私が楽しかったのです。私が楽しいと、姉の孫も楽しいのです。

ゲーム機を、手放さない今時の子供ですが、環境があれば無心に石を投げて遊ぶのです。それには遊び相手が必要です。今の子供たちにとって、最も必要なのは、閑なじいさんや余裕のある大人ではないのでしょうか。

ひるがえって我が少年時代を振り返ると、TV、車社会以前は、面白い大人が、生活空間の範囲にわんさかいたように思います。おそらく、その生活への原風景の楽しかった記憶が、私をして故郷へと向かわせているのだと思います。

モノとカネに、私の(人の)心がむしばまれた、この半世紀の個人歴史を振り返るとき、ようやくにして反省しきりの私なのです。ほんのわずかでもいいから、反省できるうちに反省し、やり直せるうちに、やり直す、そのことがあらためて肝要だと思う私です。勇気を持って。

子供にとっての、魅力的な大人とは一体どのような存在なのか、自分の子供時代を振り返ると、自分の労働や、仕事に誇りを持っていた大人が、社会にわんさかいいました。平たく言えば第一次労働に従事しながら、額に汗して働き、身体を張って手で、身体で、物事をきちんと考えられる大人たちが、多かったように思います。

しかたがない、社会の構造が変わってしまったのだからというのは、たやすいのですが、では人は何のために労働にいそしみ、家族を持ち艱難辛苦を生きるのでしょうか。大人ならば考えたい。

その問いの答えを、私は自分が爺さんになってゆくこれからの時間の中で見つけてゆきたく思うのですが、とりあえず姉の孫の役に立つような爺さんを目指す、そのためには何をしたらいいのかと考えると、おのずとかすかな希望の道が見えて、働く元気の源が見えてきます。

何でもいいのです、大切な存在の人たちのために、自分が役に立つ存在になる、存在である、ということ。離見の見、という感覚を生きられるような爺さんになりたいと思うのです。姉の孫とまた遊びたく、故郷を目指す新たな動機が加わった今回の旅でもありました。

先のことは神のみぞと思いますが、娘とレイ君に子供が恵まれたら、きっと私は、昔風の私の記憶の中の爺さんたちを目指すのではないかと、そんな気がいたします。

(今日の写真は、兄夫婦と姉の孫たちと五十鈴川で)

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