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2014-05-17

ふがいない戦後生まれの父親として思うこと。

いつものように起きてパソコンを立ち上げ、昨日書いたブログを読んでいたら、現時点ではもうほとんど書くことがないかのようなことを、まじめに書いているなあ、という感慨に襲われました。

がしかし、じ自分の中にはいろんな自分がおりまして、様々な自分がおりおり、いったりきたりしながら、なんとかバランスをとっているわけで、何度も書いていますが、絶対矛盾を生きているわけです。

そんな私を、おそらく一番知っているのは、まじかで生活している、我が家族でしょう。いきなりですが、私が幼少のころ、家には明治生まれの、祖父母、大正生まれ、戦前の教育を叩き込まれた両親、それにいわゆるおもに戦後生まれ(長兄と、長女は北朝鮮生まれ)の私たち兄弟が、ともに暮らしていました。

小学生の時の私にとっての父は、一言でいえばそれはそれは、厳しい怖い父親でした。大きな声でよく叱られた記憶が、いまだ鮮明ですが、そのような記憶さえ、この歳になるとすべては懐かしく父のことを思い返すことができるのはなぜなのかと、不思議な感覚に襲われます。

父は激しく叱った後、必ず優しかった、子供心に鬼と仏が同居しているかのような、矛盾そのものを私に示していました。その父のDNAが色濃く私に受け継がれているのを、歳とともに感じます。

このことは、これからも時折考え続けたく思いますが、絶対矛盾的在りのままの姿を、子供にさらけ出していました。自分の弱さや至らない点を、最も愛する家族の前でのみしか、さらけ出す場所がなかったのだと、今は理解することが出来る、そのような気がします。

父は教師でしたが、他人の子供には、あんなにやさしく接するのに、自分の子供にはどうして厳しいのか、そのことが小さい私には謎でしたが、今は何とはなしに理解できるような気がいたします。

ひるがえって、私は父親としてどうなのか、良し悪しは別にして、信じられないくらい、いい加減で甘い父親ではないかという、認識しかありません。まして女の子二人なので、ある年齢くらいからは、ほとんど共有する感覚が限りなく持てなく遠い世界に行ってしまったかのような印象なのです。そのような按配で、ついいい加減になり妻にお任せになるのです。

私は5人も姉兄弟がいましたし、貧しく忙しく、両親もそんなに子供にかまっている時間もすくなく、私なんかほとんどほっぽかれて育ったような印象しかなく、お誕生日なんか祝ってもらったこともありませんでしたし(ほとんどの家庭がそうだったと思います)今とはまるで時代環境が変わってしまったのだというしかありません。

でも今思うのです。つらい思い出もともかく、貧しきなかに楽しき思い出の数々がたくさん詰まった少年時代をたくさん持てたことは、幸せだったとはっきり書いておきたく思います。あんなに無心で遊べた少年時代あればこそ、今も私はかろうじて楽しく遊べる時間が貧しくとも持てているのではないかと思うのです。楽しき幼年時代の思い出は、まさに宝です。だから今も私は故郷を目指すのですから。

朝から何やら、脈絡なく、尻切れトンボになるかとは思いますが、ご容赦を。唄の文句ではないのですが男と女の間にはやはり深い謎があると、時折認識せざるをえないような気もちに襲われるときがあります。

なんとか子育て期間が終わろうとしていますが、親として子供に対して何が出来たのかは、まったくもって自信がありません。親としての具体的なイメージは両親くらいしかないのですから。

18歳から、世の中に出てなんとかこの年まで泳いだのですから、娘たちにも自分自身でなんとか泳いで、この世に居場所を築いてほしいと願うくらいしかできませんが、見守れる間はしっかり見守りたく思うのです。

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