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2014-05-28

夜明けが近い真夜中、一人おじさんはうすらぼんやりと考える、ヒトにとって労働とは、芸術とは?

今日からしばらくの期間、暑さ対策として、朝5時から午後1時まで働くことにした。まさに融通がきく会社であるといわねばならない。【今日の写真は、昨日から収穫しているチシャトウという野菜です。芯の部分ですが、畑での全体もそのうちアップしますね】

ひと仕事を終えた中高年が、生きがいを持って働ける職場というものは、世間広しと言ってもそうは多くはないだろう。私は体を動かして働くということが、若いころ、(とくに20代)は苦手で生活の糧と割り切り、ただただ働いていた。

時代は好景気で、職種を選ばず、あえて人があまりしないような仕事であれば、東京であればいくらでも仕事があった。だからこそ、演劇なんかを学びながらも、かろうじて生き延びることができたのだろう、という気がする。

思えば、たまたま幸運な時代をなんとはなしに、本能と直感のままに、泳ぎ抜いたのだと、今は思える。何度か転機が訪れたが、安易な選択をせず、身体を動かす仕事を主に続けた。

なかでも、あまり詳しく書くことは気が進まないのだが、富良野塾では自分でも信じられないくらい、31歳から足掛け3年間、自分という体と、遅まきながら青春の最後を向き合った。その経験で得たことの計り知れない、自信のようなものは、いまもずっと私の中で核のように、居座っているようにさえ思える。

おそらく、私がいまもって元気に日々を送れるのは、その時に富良野の大地に這いつくばった体験が、大きな財産となっていることは、まず間違いない。

もうあのような体験は2度としたくはないし、もうこの年ではすることもかなわないだろう。やはり若いからこそできた、やれたのだと思う。その時にしっかりと、性根を入れてつかんだことは、けっして忘れることはなく、その後の今に至るも私の精神の財産になっている。

だから、富良野塾を卒塾してからというものは、どんな仕事をやっても、たんたんとこなすようになったように思う。富良野ではほとんどお金を使うということがなかったので、生きるということとお金との関係についても、隔絶した世界の中で、うすらぼんやりと考えることができた。

いつもより2時間以上早く起きたので、今真夜中の3時近く、何やらいつもは書かないようなことを、起きて間もない身体という意識が、勝手に書いているという按配。

労働、ヒトはなぜ働くのかという、根本的なことについて、とくに若いうちに、頭が柔らかいうちにしっかりと考え行動することは、やはり大切なことだと、今この歳になって痛感する。

いささか古いが、父が人が嫌がることをやれる人になりなさいとよく言っていて、小さい私はそのことがとんと理解できなかったが、つくずく親の言葉は大きいとこの歳になって思う。

愚直のままで、生き方を人に合わせることができず、父らしくというほかはなく人生を終えたが、父の教えは、いかんともしがたく私の中に受け継がれているのを、ますますもって感じるこの頃だ。

けっして、無理をしているのではなく、可能な限りどちらがいい生き方なのかと、ハムレットのように、問い続けるということが肝要ではないかと、いまだ私は考ええる。

それを止めなかったからこそ、サンナンの農にも巡り合えたのではないかと、考えたい。A専務は中高年が、元気に働ける農の一つのモデルを作ることを、赤字にもめげず目指している。(経済構造にがんじがらめの、農薬漬け野菜を食べ続けたらどうなるのか一人ひとりが考える力を身につけないと、アカンと思います)

いまどき、このようなドンキホーテ的な、企業人もいるのだ。そのことは私を元気にさせる。人には精神を活性化させる、ビタミンが必要なのである。芸術や文化は本来そのためにこそ存在していたのだが、その世界までもが、経済構造に組み込まれてしまった、のだ。

庶民はほとんど芸術や文化に触れる余裕がない、(触れたこともない)触れる余裕のある層がただただまわりまわる(もちろんすべてではありません)互いが共存する、環境づくりがなされない、少ないないこのいびつさ、一こと嘘寒い文化状況。

ではどうすれば。しばし、おじさんは畑で這いつくばり、目線低く限りなく広い世界を想像しながら、一人のいまを生きる人間として考えたい。

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