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2014-05-31

苦楽を共にすることの中からの関係性を、倦まずたゆまず紡いでゆくことを生きる。

昨日ブログを書きたかったのですが、どうしても起きてから落ち着いて書く時間がなく、かといってって仕事を終えて帰ってきてからの体は、とても文章がつづれるような体ではなく、暑さでほてった体を休ませるのがせいぜいといった塩梅でした。

しばし、ひたすら体を休めて、真夜中眼が覚めたので、湯浴みをしたのち、穏やかな静けき感覚を取り戻すことができたので、書いています。

私ごときの拙文ブログであれ、心と体が伴っていないと、なかなかにつづれることはかなわないのです。そのような中、この2カ月はよく書いたなあ、と我ながら驚いています。

それは、多分に何かを綴ることの幸せ感が、途切れることなく私の中に、今もこうして湧いてくることがあるからだと思います。

それと確実に読んでくださる方がいるということ、この2点がすべてだと思います。話は変わりますが、以前月に一度くらい、新聞に小川洋子さんという作家が【楽あれば苦あり】という、エッセイを書いていました。

私はこれを毎回楽しみに読んでいました。まさにそうだよなあ、という心持に何度もさせられたものです。(小さきことに感動するばねを持つことの大切さ)苦と楽は分けられるものではなく、つながっているというのが私の認識です。

幸福はつかんだかのように思えても、つかんだ瞬間から砂のように落ちてゆき、それがいつまでも続くなんてことはあり得ないのが世の定めだと、どこか受け入れてゆく。

そのよないわば感覚を私は持っています。私がシェイクスピアに限りなく惹かれるのは、そのような人間というはかなくも虚ろに生きざるを得ない存在を、余すところなく善悪丸ごと包み込んで、劇的宇宙を構築しているからだと思います。

いつまでも続く家族の幸福なんてものはないのです。だからこそ、祝えるときに心から祝う。今という時間を生きられる幸せ感を大事にして、何かを紡いでゆく。私の好きなな方々はおおむねそのように、つつましくしっかりと、根を張って暮しておられます。そして、意識的にすがすがしく天命を受け入れてゆく。

私もかくありたいと願いつつ、至らぬ自分自身を叱咤激励しながら、なんとか日々をしのいでいるといったところ、なのです。寛容な心持を持続するなんてことは、まことにもって至難のことです。

養老先生もおっしゃっています。他者を理解しようと思ったら、まずおのれの至らなさを、変えてゆく努力を倦まず怠らないということ、をいかにして継続するか、に尽きるのではないか、と私は現時点で感じています。

だからこそ、毎日のように点検確認の五十鈴川だより、なのだと思います。まずは、自分自身に水をやることから始める謙虚さがないと、と考えます。

何故かまじめなブログになってしまいましたが、遊声塾の発表会が近いので今夜はこれにて。

【昨日疲れて帰ると、素敵なお葉書が2通届いていました。ささやか、小さき感動のある暮らしがいいですね】

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