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2014-05-11

自分で植えた玉ねぎを初めて収穫して思う朝。

宮崎から帰ってきてから、なんとか4日働きました。サンナンで農の仕事に従事し始めてから、とにかく良く休むようになったことは以前も書いたように思いますが、以前より本を読まなくなったような気がする私です。

以前は本が手元にないと、どこか不安な心持がしたのですが、だんだんそのようなことがなくなってきたような気がします。それはどういうことなのかは、今自分でも判然とはしませんが、本を読む時間を、休息に充てるようになった自分がいます。

本を読むことは今も大好きですが、睡眠を削ってまで本を読むほどの読書家ではないということです。それでも夕食前読む時間が少なくても、わずかではあれ、本を読み続けています。文字を目で追うと思わぬことを教わります。知的好奇心(高貴心)は精神をを耕すには必須です。

知らないことを知るということは、まさに人間にのみ与えられている、特権的楽しみであり、その悦楽を、無知蒙昧である私が甘受する喜びは、言葉になりません。いずれもっと年を重ねたら、枯れてゆきながらの晴耕雨読的生活を夢見ます。

今はまだ身体が若く、時期尚早なのだと思っています。ところで昨日人生で初めて植えた玉ねぎを収穫しました。今日の写真がそれです。一番最初に夕食で口にした初玉ねぎは、葉の部分を入れて570g在りました。半年かかっています。

自分では植えただけ、後は大地と太陽と水が育ててくれたものを頂く。どんなレストランに行っても味わうことのできない喜びを、この年で経験しました。なにがまっとうなことなのかは、自分でもよくは理解しえないし、言葉にもできないのですが、頂くという謙虚な真情が、何かすとんと自分の中で腑に落ちました。

リサイクル、リユース、リセット、季節が循環するように、自分の暮らしもあるがまま、気持ちのいい方に循環してゆく。可能な範囲、消費生活におさらばして、ささやかに生活環境をクリエイトしてゆく生き方を、心懸ける楽しみを大地から学んでゆきたく思う私です。

このお化けのような資本主義社会の行く末、難しいことはとんと理解できない私ですが、人間は酸素なくしては生きてゆけない生き物です。おいしい安全な空気、おいしい安全なお水、おいしい安全な食べ物、それを見失って、どうして幸福になれるのでしょうか。

仮想の敵を作り、核爆弾や、細菌兵器を作り、武器を輸出してまでのお金まみれ社会の行く末は、私みたいなボンクラ、がんたれ(宮崎の言葉で阿呆)にはとんと理解できません)。正義を旗印にする論理も限りなくいかがわしく、感じてしまう私です。他者を不幸にして、どうしておのれが幸福になれるのでしょうか。

故郷の滝、巨樹、五十鈴川を前にして、あらためて私は打たれました。産業革命、資本主義社会以前、(もっともっとまえから)先人達がいかに自然に対して畏敬の念を持って生きていたのかが、理解できました。還暦を過ぎ、私は意識的に昔人的生活感覚を取り戻す現代人で在りたく、思考を持続するべく自問自答ブログを書いているのかもしれません。

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