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2014-06-30

62歳、畑で体を動かし、シェイクスピアを声に出して読み、自分と向かい合う。

昨日から、なにやらパソコンの具合が悪い、写真もアップできないし、マウスも動かない。だからこの拙文もアップできるかわからないが、せっかくのお休みくらい、一週間のはじまりのおまじない的ブログを何やら書いて、遊びたい私である。

この年齢になると、かなりどこかが鈍感になり、いい意味でなるようにしかならないのだという、祈りにも似た、ある種の感覚に、私の場合たどりつきつつある。ある種の無常感で、心がいっぱいになる。

だからといって、私自身は私なりに精いっぱい生きて、日々を送っているという、そこはかとなき、自己満足的な日常を送っている自覚がある。繰り返し書いているが、農の仕事に従事してからというもの、なにかつきものが落ちたかのように、これまでの自分にはなかったような感覚が生まれてきて、空のもと、土と向かい合い、身体を動かしているだけでなにやら満たされるのである。

以前のように、芸術や文化的なことに触れなくても、まったく淡々と日々が流れ、時の移ろいの中での、植物の変化のなかに身を置いていると、人間界に身を置くよりもはるかに気持ちがおだやかに過ごせるのである。これはいったいどういうことが、我が身に起こりつつあるのであろうか。

わずか9カ月の農体験ではあるが、確実に何かが私の心身で変わりつつある。人間が今もハイテク、イノベーションの果てのスーパー身体置き去りライフに、進みつつあるのを尻目に、まさに自分はフール・オンザヒルではなく、畑の中のおバカさんとしての在りようを、身体を動かしながら、農作物と向かい合いたいといった、かのような心持なのである。

そのことのほうが、楽しいのだ、だから続けられる。おそらくこれから歳を重ねるに従って、身体が動ける在り難さが、いかんともしがたく沁みてくるようになるだろうと思う。だからこそ、先のことではなく、今動ける身体での、畑での時間の日々を何よりも大切にしたいのである。

それとシェイクスピアを日本語で、声に出して読むこと。今のところ日常、私はこれで満ち足りている。今のところまったく退屈なんかしている時間が私にはない、次から次にやりたいことや、したくなることが起きてきて、限りなくいい方向に循環のスパイラルが起きているのである。

限りなく心労が少ない状態、身体が心身ともに健やかでな状態なればこそである。だから、私が今最も怠らないことは、身体の手入れである。体の無理がきく若いころは、自分の体を省みることがなく、酷使してきたような気がして、今私はおおいに反省している。

でも気付いたのだから、しっかり自分の体と向かい合い、反省しながら、あらためて自分と向かいあえばいいのである。人間には反省するという、大事な気づきが備わっている。そのことに虚心坦懐に向かいあう。

汝自身を知れ、とは昔から聞くこれ以上はない、深い深い哲学的言葉だが、齢62歳にして、その言葉の重みをなるだけ忘れず、畑で体を動かし、声を出しながら自分との対話を可能な限り持続したいと思わずにわいられない。

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