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2014-06-21

休日前の夕方、お昼寝から覚め、ひと風呂浴びて後のブログ。

仕事のついでに、娘が週末我が家に帰ってきて、久方ぶりに母も共に家族全員のだんらんを私は味わった。

長女は社会に出てまだ1年ちょっとしかたたないが、やはり社会の中でもまれると、我が家にいたころとはずぶん雰囲気が大人になったように感じられて、これならお嫁に行っても大丈夫、なんとかやってゆけるのではないかという気がしてきている。

つい自分の若いころと比較してしまうが、娘を見ていると、明らかにまったく違う環境で、自分の居場所を見つけつつ、努力している姿がなんとはなく感じられて、親ばかの私としては、ただ安心している。

娘が、将来の伴侶として選んだ、ドイツはドレスデンの、男性との出逢いは、今のところ完全に吉と出ているのがわかる。明らかに彼の影響が随所に感じられるのだ。異文化の環境で育った者同士が、新たな家族を築き上げてゆく、そのことは苦難も大きいとは思うが、逆に大きな喜びも又、もたらすに違いないと、私は確信する。

もう、とうに娘は親元を巣立ち、新たな世界を二人で歩み出している。親としてはそっと、見守るくらいのことしかできないが、老いてゆく我々にできることは,何かというあらたな問題意識も、自分の中に生まれてきて、そのことがなにやら、私自身を活性化させていることは間違いない。

9月には、ドレスデンで式を挙げる、レイ君のご両親にも初めて会うのだ。我が家にとっては一大事の出来事、今はただ静かに働きながら、その日を迎えたいとの、思いだ。それがすまないことには、やはりどうもになにやら、うれしくも落ち着かない。

畑で働き、シェイクスピアを声に出しながら、暑い夏をうまく乗り切って、秋を待つ。なんともはや、こんな日々が、わが人生に訪れるなんてまるで思いもしなかった。セラヴィの心境だが親としてやれることはやってその日をお祝いしたい。

今更ながら生きてゆくことは、未知なる世界との出逢い、新たな自分との出逢いであるということを、理解する。そのためには、あらゆる未知なる万物である他者(人間以外の存在すべて含む)の存在が、絶対的に必要であるということがわかる。

話は変わるが、【オシムが語る】という本を読んで、遅まきながら初めてサッカーというものについて少し学ばせてもらった。単なるサッカーの本ではなく、私の直感はやはりかなり当たっていた。あのなんとも言えない憂いのある顔は、どのようにして出来上がったのかが、にわかに腑に落ちたのである。

またしても、自分の無知を思い知ったが、ワールドカップに象徴される、現代世界における、とくに第一次大戦以後のサッカーの歴史は政治的なことと、ビジネスを抜きにしては語れないということが、この本を読むとかなり理解できる。

それは、熱狂の裏でうごめき暗躍する、まぎれもない現代世界の置かれている暗部も照射している。サッカーを語ることは、つまりは人間世界を語ることになるのである。

ところで、オシム監督は血に塗られた歴史を生きてきたバルカン半島の、ボスニア人である。私はロンドンから26歳の時陸路で日本に帰ってきたが、旧ユーゴスラビアの当時の首都ベオグラードを経由して、モスクワに入った私には、忘れられない思い出の記憶がある。

わずか一日の滞在で、円しかもっていなかった私が現地通貨に替えるために、まずドルに替えるべく、日本大使館を訪ねたところ、冷たく門前払いをくわされ、途方に暮れて町を歩いていて、身振り手振りで困っている、と道行く人に話しかけると、突然美しい中年の物静かな品のいい女性が、、現地のお金で、5000円くらいのお金を無造作にくれたのである。

あまりの予期せぬ出来事に、感激感動した私は英語でしかお礼が言えなかったが、私のつたない言葉もそこここにその女性は風のように踵を返して、茫然としている異邦人の前から、姿を消してしまったのである。

その記憶と経験は、いまだこの年齢になっても、私の中で大きい。人間の摩訶不思議さを強烈に私に、植え付けたのである。私の青春の宝、短編小説のような思いでである。

私がこれまでに、異文化の国々の多くの音楽を企画してきた背景には、(このような素敵な女性が世界には存在するという現実、異文化の素晴らしさ)若い時に見知らぬ国々を旅したことで知りえた体験がとても大きいと思う。

勝った、負けたと子供じみた視点ではなく、勝者と敗者の背後の、とらえどころのない世界が抱え込んでいる重たき現実にこそ、大人はもっともっと目を向けるべきではないかという気がしてならない。

私ごときの瞬間思考のブログでは、多くを語りきれないが、あらゆるスポーツが政治と金まみれになっている、現実には、いささか暗澹とする。ネット、通信衛星、TV局、メディアを牛耳ったものが世界を支配するかのような、危うさ。

ドロクバ選手のサッカーは祈りだと、藤原新也さんは語っている。私など単細胞はすぐに自分の国だけのことに思いをとらわれがちだが、世界はもっともっと複雑で、しなやかで美しいのである。その世界の宝のような無名の選手たちの動きや輝きをこの目で、わずかでも見たいと思う。

オシム監督は語っている、サッカーは美しい芸術だと、人間だけが生みだしうる。様々な矛盾を抱え込みつつも、人間は感動を求める。真の予期せぬ感動は人知の及ばない世界にこそ存在する。

おそらく、そのシーンは全世界の人々の胸に届くと私は思う。そのシーンは勝った、負けたの次元をはるか超えた、何かなのだと思う。



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