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2014-06-16

限りなき自然感覚から遠くなった我が暮らしを、もう一度足元から考え、行動する。

休日の午前中の自由な時間はやはり私には格別である。朝湯を浴びさっぱりとし、おもむろに庭など眺めながら、パソコンに向かっていると、そこはかとなくいやでも文章を紡ぎだしたくなる。

妻の丹精のおかげで、わずかな敷地の庭は数年前とはうって変わって、季節に応じた花々が私の眼を楽しませてくれる。それらの花々のおかげで、どれほどブログを書く元気を頂いてきたか、計り知れないい。バラの季節が去り、この時期、名も知らぬ花や数本のアジサイが色づき始めている。

ある一定の庭の景観を保つためには、絶えず草花と対話をするように、日々眺めながらの、微調整的な継続が必要だから、何事もすきこそものの上手なれということだろう。子育て期間中も、やりたかったのだろうが、出来なかった。いまいきいきと楽しんでいる。こんなにも打ちこむ彼女、それを日々眺めている私は、一人の人間として感動する。

何十年そばにいて、日々同じ屋根の下で暮らしていても、人間は変貌してゆく。変化してゆきながら、その人らしく流れてゆくということが、何にもまして大切で、肝要な事である、と今更のように思い知る。(家庭菜園はほとんど妻に任せきりだが、初物のキューリを先日食したが、実にうまい)

さて、感動するということは、人間を人間ったらしめる大きな要素の一つであると、私は確信している、だが、その感覚はかくもヒトによって異なるという、今更ながらの当たり前のことについてようやくにして最近、はっきりと私自身深く自覚するようになってきた。

私自身小さいころから、映画を見たり音楽なんかを聴いて、感性的に身体の深いところで、わけもわからなく揺さぶられるようなことが、多々あったのだが、、他の人にとってはさほどそうでもないというような当たり前のことを、今更ながらのように、深く受け止めるようになってきたのである。

若いころは、何か心が動かされるような体験をすると誰かに語らずにはいられない、ようなことがあったのだが、どういうわけか、最近はそのようなことが、いい悪いは別にして、限りなく少なくなってきつつある。(寂しいといえば寂しい気もするが、そのことは当たり前のこと、これが人生とわり切って受け入れてゆくしかない)

それはなぜなのかということに関しては、論を急がずにおきたいのだが、確実に言えることは、限りなく社会が変容し、共通感覚の土台感がなし崩しに崩れ去ったということが、起因しているのではないかと考える。(バラバラ感覚でも、なんとか間に合う暮らし、お金で解決、わずらわしいことには関わらない、いわゆるひきこもり、錯覚の蔓延)

一ことで言えば、あまりの急激な社会の変化に、身体の微妙な感覚が悲鳴を上げていて、そのことに関して、私も含めてのことだが、かなり無自覚なのではないかということだ。どこか無意識に覚めた状態で本能的に、身体が考えることを拒否してやり過ごしているかのような、根のない暮らし。

体があまりにも都市化して、土や草のむっとする匂いを体感することさえ、普段の暮らしからは消えてゆき、ヒトは大いなる自然から限りなく遠く離れ、快適人工空間で、冷暖房やあらゆる人工器機に取り囲まれて生活している、そのことに対するあまりの懐疑の足りなさ、少なさ。

おのおのが都合のいい洞穴にこもっても生きられる、そのことにならされて、そこからの引きこもり状態からは、もはやのがれたくはないといったかのような、いわば袋小路に入っているのではないかという気がしてならない。

母は、土に触っていると限りなく心が安らぐという、私もまた母ほどではないが、自然の中にいた方が気持ちがいい、いまだ都市化された空間(都市が嫌いというわけでは全然ない、時折都会にもいまだ触れたくなる、矛盾を生きている)ばかりにいると、時折大いなる自然の中に、逃げ込みたくなる。要はバランス感覚の喪失。

だがこんな私のような感覚の持ち主は、わが国では圧倒的にこの数十年で、少数者になりつつあるような気がする。だが世界に眼を転じると、このような都市化された世界に棲んでいる人間は、この地球上では逆にいまだ少数者なのだと私自身は思っている。

サッカーに裸足で打ち興じる物質的に貧しい世界の側に棲む子供たちの眼の輝きは、いったい何を物語っているのだろうか、とふと考える。小学校に上がる前までの私は、明らかにあちら側の世界の子供だったような気がする。

おりしもワールドカップが始まっている。どこかにかすかに、絶対矛盾を抱えながら、土埃のいまだまう国々の代表や紛争地域のエリアの文化圏からの、私がいまだよくは知らない国々の選手たちを、眺めるのが、今回のワールドカップを見る、大きな一つの楽しみである。

【写真は、雑草を抜いたり、手鎌でほふく前進しながら草を刈ると、どうしても膝が破れる、そこで82歳の母に頼むと見事に繕ってくれる、私の宝物の一つだ】




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