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2014-06-30

五木寛之著【退屈のすすめ】を読む。

ずいぶん久しぶりにブログを書くような気がしている。なんだかこのままなにも書かなくていいのではないかという気もするのだが、いつものように絶対的矛盾というしかない感情に、私はいつも襲われながら、何やら書きつづることで、今この時を、生きている。

このように書き始めると、梅雨空のように、鬱陶しき中年オジサンのぼやきブログになってしまいそうで、そんな気分の時は、つとめてブログを書きたくはない。つとめて、さわやかな風のような話題を綴りたいとは思うものの、生来の気質のようなものは、いかんともしがたく、わが身の限界を時折いたく痛感する。

職場のN氏は面と向かって、五十鈴川だよりが楽しみだと言ってくれるので、読んでくださる方々のためにも、よたよたとではあれ、立ち続けている間は、ささやかに書き続けたいとの思いにかられる。

さて、五木寛之さんの【退屈のすすめめ】という本を読み終えようとしている。若いころから氏の小説ではなく、エッセイにかなりの影響を受けてきた私は、今も時折、氏の小説(もたまに読みます、親鸞は入院していたときに上巻、退院後下巻をを読みました)ではなく、エッセイを読む。

齢81歳、その精神のみずみずしさには驚かされる。氏のこれまでの人生での精神の薬としての知的遊びを、遊びのくくりで8章にわたって述べている。きわめて読みやすい文体であっという間に読み終えるが、内容は実に深い。これまでも、氏の著作は時折読んできたのだが、この本はお薦めだ。

氏はもっとも多感な年齢での引き揚げ者である。その過酷というしかない原体験は、今に至るも氏の人生を、深くおおっている。私の両親も引き揚げ者である。だからというわけではないが、私は最近とみに、引き揚げ者の方々の書かれたものを読みたくなる、自分がいる。なかにし礼さんもそうだ、枚挙にいとまがない。

今はそのことに関しては置くことにするが、多感な時期に引き揚げてきた方々の、その後の人生の生き方、歩み方に、惹かれるのである。私より15歳から25歳くらい年上の年齢で、すぐれたお仕事をされている方には、引き揚げ者の方が多い。異国の地で生をうけた方々は、大陸的で視野が広くフットワークが軽い、くよくよしない。

デラシネという言葉も氏から教わった、1968年氏はシベリア鉄道で、横浜からヨーロッパに向かっているが、その10年後に私は逆コースで帰ってきたのは、氏の本の霧のナホトカ航路という響きに若き私が、感応したからだろう。

おそらくすべての人がそうだとは思うが、多感な時期に触れた森羅万象から、ヒトは影響を受ける。私にとっての五十鈴川、ビートルズや、シェイクスピアがその最たるものである。幼き日、若き日の原体験のようなものから、おそらくヒトは一生逃れられないのではないかという気が、私にはしてならない。

そのことから、終生、私は逃れられず、歳を重ねてゆきながら、繰り返し繰り返し、咀嚼反芻しながら、今を生き延びているのではないかという気がしてならない、おそらく今後も。

第2章で、声と遊ぶ、ということに関しての考察が述べられている、我が意を得たりである。大先輩の教えには、いちいち深く私は納得する。私ごときの年齢で言うのはいささか気が引けるが、困窮の極みではあれ、つまるところ人生いかに遊べるかということに尽きると思うのである。

(今朝はパソコンの調子悪く、本の写真をアップすることができません、ご容赦下さい)


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