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2014-06-15

雑草との対話の中で鍛えられる日々。

今日は畑で一人で仕事をした。やった仕事は葱の畑の中の機械での草刈りと、手での草抜きと。釜を使っての手での草刈りの、3種類。一つの姿勢をずっと続けると体に負担が大きいし、作業も捗らないので、私はこれを時折休息をしながら、循環して続ける。

サンナンの畑は無農薬なので、今の季節のいわゆる雑草と呼ばれているおおよそ10種類近くの草たちの、その生命力の強さにはほとほとあきれるほどに、感動すら覚える。いまどきこのようなことをやらせている、会社にも私はどこかで感動する。

いまだ私は、草に鍛えられているおのれを自覚する。彼らにはとてもではないがかなわない。ただそっとネギの成長との共存を願うのみの心境である。ネギの周りに群生する手ごわい草は可能な限りぬいて、刈って、緑肥にする。

ネギより高く伸びる畔の草は機械か手釜で刈ってゆく。根気がいる、果てしなき仕事だが、私はこれを出来るだけ遊び心を持ってやろうと、どこか意識している。夢が原で培ったあらゆる経験が、サンナンの農の仕事にはかなり役立っていることを痛感する。無心で鼻歌とともに。

そしていつも思う。昔の人たちはこれをずっといつも機械なんかなくても体一つで行ってきたのだということを。棘のある草、横にはうつる草、ネギの倍くらいの早さで成長する名も知らぬ草たち、いつか図鑑で調べてみようと思うくらいに、最近は雑草に関心が湧いてきた。

自然には一切の無駄がない、草は根を張るところに自生する。そのど根性には私自身おおいにあやかりたいものだと、最近は憎い敵を通り越して、しげしげと観察してしまう。同じ種類でも人間と同じで、微妙に大きさやかたちが違っている。

話は忽然と変わる。夜明けとともに働くようになって、ようやく2週間近くなる。起きるのも少しなれてきた。起きて畑に到着したら半分仕事は終わったようなものである。涼しい時間帯は仕事が実に気持ちよくはかどる。気温が上がるにつれて、身体への負担は増えてくるから、時間帯をスライドしたことは賢明だ。

帰ってシャワー、昼食を済ませた後の、午睡がこれまたたまらない。夕方は読書といった感じで、生活の新たなリズムが生まれつつある。職場が家から近いということはなんともありがたいというしかない。子育てがほぼ終わり、生活に追われなくなってきたいま、動ける体で働けるということを、可能な限り、苦楽したいと私は考える。

そのためには、睡眠栄養身体の管理をきちんとし、出来る限り余分なことには時間を費やさず、とまた、同じようなことを書いてブログを締めくくる。

【写真はワールドカップが始まったので、ということもないのですが、イバン・オシム氏の本を読んでます。この人の顔が私を引きつけます】

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