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2022-02-05

亡き父の命日に読む森田真生氏の【数学の贈り物】

昨年の手術後からから今に至るまでのおおよそ一年間、なんともいえないくらい新しいというか、新しい生活に突入している感じで日々の生活が送れているように思う。端的に一番の目に見える変化は、お酒を断ったことであろうと想える。

今ではまるでほしくないのだから不思議である。飲むのが当たり前のような生活を手放したことで、飲まないのが当たり前になってから、何やら新しい自分が生まれてきているのを、古希を目前にして遅ればせながら感じている。何かを手放すと、何かが手に入るのだとあらためて感じる。

そんな矢先、年明け早々に手にしたのが、森田真生氏の著作である。これは手元に置いてじっくりと読まないといけないと思い、アマゾンでとりあえず一冊注文したのだが、氏の著作は折々学ぶという姿勢で、今年からは特にきちんと読みたいと思っている。

五十鈴川だよりではくだくだ打たないが、本物は永久に輝きを放つ(ジャンルを問わず)渾身の著作であることは、氏にしかなしえない文体、新しい発見、表現、自分で解読した言葉に裏打ちされている。

私へのサプライズ贈り物である。

話は変わるが、この歳になってつくづく反省するのだが、数学という言葉を聴いただけで、アレルギーを持つような人生を送ってきた私であったのだが、氏の著わした岡潔氏に関する考察本を年明け早々に読んで、根底から数学という崇高な世界に挑み続ける(難しいのだが読んでいてすがすがしく気持ちがいい)岡潔という偉大な日本人の存在を遅ればせながら知らされたのである。

ずいぶんと遅ればせながらの気づきなのだが、気づいただけでも良しとしようと自分を慰める。繰り返し読みたくなる本が手元にある暮らしは、老いゆく時間を共に過ごすためにはまさにひっすなのである。

森田真生氏は1985年生まれである 。ということはまだ若干37歳である。(私の知らない何と素晴らしい人たちが顕れていることか)このような新しい才能、在野で独立独歩で未踏の地を開拓する数学者の存在というものをはじめて知らされた。この歳になっても、かろうじてこのような方の存在を感知できる間は五十鈴川だよりが打てるのではないかと思う。

ところで音読と数学との間にどのような関係性が、世代を超え点と点を結ぶこころの 通い合い、琴線のふれあい、彼の発する言葉になぜ自分がかくも反応するのかは、ようとはわからないのだが、何かを断ったり手放したりすることで、見えてくる世界の豊かさが在るのだという一点において、深く納得するのである。

まあ、こ難しいことは置いといて、困難な道をただただ自分を信じて歩み続ける孤高の数学者の志に、土取利行さんに共通する何かを感じたのである。送(おく)るという言葉と遅(おく)ればせながらの言葉について森田真生氏が著作のあとがきで触れているが、含蓄に富む。 習えば遅ればせながら、古希から再び何か見えない世界の崇高さを少しでも学び続けられたらと思わずにはいられない。手遅れにならないうちに。



 

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