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2022-02-27

術後一年後、そこはかとなく春を間近に感じる朝に想う。

 ウクライナのことは打てないが、どこか心の内に留め置きながら、五十鈴川だよりを今朝も打ちたい。

ちょうど一年前の2月の末の一週間は原因不明の高熱が続き、すでにコロナ下医者にゆくのがギリギリとなり、近所の町医者にかかってもらちが開かず、結果その町医者に紹介状を書いてもらい西大寺では大きい病院に駆け込み診断してもらうと、肝膿瘍。敗血症を併発していて即入院手術となった。

あの入院までの、ほぼ一週間の経験したことのない夜になると上がる熱の辛さは言葉では言い表せない。退院した日ははっきりと覚えているが、入院した日にちは記憶にない。

くどくど綴るのはよすが、それから一週間の間に3回も手術することになろうとは、まったく予期しない出来事であった。あれから一年の時が流れ、岡山まで歩いて行けるほどに、体力気力が充実して生活できていることが、どこかしらまぶしく感じられるほどである。

昨年3月は、五十鈴川だよりを打っていないと記憶する。生まれてはじめて集中治療室を経験し、体の3ヶ所から管で点滴を受けながら薬、栄養などをとり生き延びることができた。とくに二回目の全身麻酔のあとがしんどかったと記憶する。(管をぶら下げながら、病院の廊下を歩いて、リハビリをM先生の言葉にしたがって始めた。たぶんそれがウォーキングに結実している)

生板の上の鯉という言葉があるが、覚悟を決めるしかない。腹をくくってM先生にお願いし委ねた。良き先生のお陰でこの世にふたたび生還することができた。あれから一年が瞬く間にたとうとしているが、無事に古希を迎えることができたことの喜びは例えようもない。まかり間違っていたらもう自分はこの世には存在していなかったかもしれいのだ。

そのようなことにおもいをいたすとき、退院をしてからのこの一年は、自分でもこれまでの人生ではじめて経験するストイックで静かな生活を送っている。もちろんコロナ渦中であるからとも言えるが、その事を差し引いてもである。

謙虚にこの方の言葉に耳を傾ける

なんといってもお酒を口にしなくなったがために、生活が限りなくシンプルまっとうでどこか、隠者とまではいわないが、俗物丸出しであった自分が、どこかに消えたのではないかと思えるほどに。

ある意味では現世的には面白味のない初老男になってしまっているのではないかとの思いもあるが、これは致し方ないと想っている。

経験してみてはじめて見えてくる世界というものが確かにあると私はおもう。術後私のなかには、以前とは異なる自分が確かに存在するようになってきたというか、あらわれて来たように思えるのである。

なにかしら大切な存在への優先順位、気付きが変わってしまったのである。古希も過ぎたし臆面もなく打つが、妻とのこれからの時間を大切にいきることに決めたのである。そのためには、現在情熱を持続していることが(妻はまったくそのようなことは望んでいないが)できなくなっても構わない、というくらいどこか私のなかでの変異というしかないほどの経験、出来事であったのだと、おもっている。

何はともあれ、今こうやって五十鈴川だよりを打てるだけで、歩けるだけで、働けるだけで、音読できるだけで、本が読めるだけで、空を眺めるだけで、美味しくご飯がいただけるだけで、孫の成長を拝めるだけで、もう十分にありがたいのである。こと更なことはもうこれ以上必要以上に望まないといえるほどに。

後は縁のあった方々からとの、手の届く範囲での企画や、音読他の今やりたい心に浮かぶよしなしごとに、うつつをついやし、ふたたびいただいた命を大切な家族や親族、仲間とともにすごし歩みたい(とおもう)。

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