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2022-02-10

間もなく古希を迎える朝に想う。

月日がまるで雲が流れてゆくかのようなように流れてゆく。還暦を迎えた時にも思ったことだが、間もなく古希を迎える身としては、あれからの10年が まさに矢のように過ぎたという感慨を持っている。

だがこれからは、以前にもまして早く歳月の流れを感じるようになるのだと思う。還暦を迎えた時と異なるのは、10年後を見据えて生きるといったことができないという、思いである。10年後私は存在している(はしたいが)かどうかの自信が持てないからである。

事程左様に元気に動き回れる人生時間は短いのである。(あだやおろそかな時間を過ごせないのである)時間を大切に生活したい。だからといって特別に生活に変化はないのだが、今日一日を以前にもましてきちんと過ごしたいのである。

還暦の時には、10年後の自分を想う人生時間の余裕のような元気な感覚があったので、遊声塾も立ちあげたりして、すんなり60歳代に入ってゆけた様に想う。まだまだ老いてゆく感覚の実感が遠かったのだ。

だが、古希を迎えようとしている今想うことは、もう10年先のことではなく、3年先を見据えて生きてゆこうというような気持に私はいる。心の奥底には10年後も生きて在りたいというという存在欲求は在るのだが、はかなくも自信をもって打てないのである。

家族カレンダー(娘たち作)

もっと打てば、もうそのようなことには関心がないというのが本音かもしれない。いよいよ年齢のことは考えない、とらわれない、左右されない、時間(記号としての)無視、自分の内なる感情の思いのままの感覚に身をまかせ、流れてゆきたい。還暦の時にもそう思ったのが、もっとわがままにあるがままにくだってゆきたいのである。(こどもにかえるかのように)

ただひたすら一年を、春夏秋冬を過ごす大まかな計画を立てて畑を耕すように冬から準備し、人生の晩年時間を可能な範囲で実る様に、ささやかに存在したいという思いなのである。一回こっきりのわが人生を思い切り遊ぶのである。

何やら最近、この2年以上あまりにも静かな生活を過ごしていたがために、コロナが終息したら(あるいはこのままずっとコロナが終息しなくても)なにがしかの老いの行動アクションを起こしたくなっている自分がいる。

土取さんをはじめとする、元気で活発に活動されておられる諸先輩たちに刺激を受けていることもあるが、私らしくやれそうなことが、音読をこの10年続けてきたおかげで、時期を見つけて音読ひとり会をやれそうな気が古希きっかけにして生まれてきたのである。

古希からの私の時間は、まったく未知である。春はまだ先ではあるが、私の中ではかすかに老いの春の足音が私の体に響いている。

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