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2022-02-13

69歳最後の日、昨日家から岡山まで歩いた日の翌朝、古希を迎えた朝にに想う。

 私の記憶では65歳の誕生日に家から岡山まで歩いた記憶があるので、昨日8回目のウォーキング、岡山まで歩いたのは今回が2度目である。

さて、今日は私の70歳の生誕日である。昨日のかなり長いウォーキングは古希を迎えるにあたって、何かちょっと記念になるかのようなことができないかと考え、思い付きでただ歩いただけなのだが、結果としてはとても良い思い出ができたことを、五十鈴川だよりにうっておきたい。

家から岡山丸善まで歩いて本を買いにゆくという、ただそれだけの目的で歩き始めた。できるだけ車の少ない、小道や自転車道、百間川を土手沿いに歩き、途中操山の中(これから私のウォーキングコースになる)を散策寄り道して、原尾島から後楽園に抜け、丸善に着いた。所要時間4時間。

今現在読みたい文庫本を3冊求め、そこからは久しぶりに路面電車で岡山駅に、遅い昼食を(天丼、空腹で沁みるほどおいしかった )済ませ赤穂線で西大寺に。家を出たのが午前9時、帰り着いたのがちょうど午後3時だった。

 

昨日求めた3冊の文庫本

やったーあっ、というささやかなれど達成感が私の中に湧いた。仕事から帰ってきていた妻が祝福してくれた。身近な手の届く範囲で、何かしらの面白きことをわが生活の中に見つけるいうのが、古希以後ライフで特に私が、意識したいことなのである。

無理をしないで、路傍の花や景色風景を愉しみながらのウォーキングは、まだ年明けからわずか8回(妻とは4回)ではあれど、距離ではなく(昨日は特別)歩くことで見えてくる、視界に飛び込んでくる。いま生きている愛でる喜びの発見という意外性がわが体を満たすのである。

古希からの事はじめ、今のところまだ、妻も私もアルバイトをしている関係で、ともに歩ける日は限られるが月に何回かは夫婦で歩くひとときを大事にしたいと思っている。夫婦でささやかな良きことを見つけたという喜びが私を満たす。

ところで、昨日は途中歩きながら音読も一時間以上やったのだが、何と太陽光の下では、老眼鏡も不要、土手の上では車の心配もなく、実に楽しく音読ができたのである。まるで、二宮金次郎のようであるが、じっと座って読むのとは、また違った解放感があり、人気が遠いところでは、川向うに大声が出せたりして、野外音読の楽しさもまた見つけた。

昨日はチェーホフの【白鳥の歌が聞こえる】を2回音読することができた。さて、古希を迎えたからといって特段な生活の変化はないのだが、これまでのルーティン生活でやっていたことはこれからも続けることはもちろんなのだが、これに野外音読散歩ウォークが、新たに加わることになるのが、古希からの事始めということになる。

一寸先のことはだれも皆目わからないのは、コロナや、先の手術体験で沁みてはいるが、とはいってもささやかに下りつつも挑戦したいではないか。いよいよ古希から、もっと一日を丁寧に生き、なにがしかの楽しい努力、自分の気持ちが上向いてゆくように老いゆく身体を運んでゆきたいと、念う私である。

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