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2018-03-30

稲城だより⑦

昨夜は、満開の桜を一人で夜桜見物を愛でることができた。私はただただ花の下を歩くだけであったが、しばし大地が椅子とテーブルになり、多くの方が宴会お花見をそこかしこで楽しんでいた。人々が楽しそうにしているのを見るのが私は好きである。

ところが、今朝はその興趣が一転、夜半の風で桜吹雪が舞い、かなり一気に散っていて、あの宴会の面影はどこにもなかった。今朝はその風が吹く中での、肌寒い早朝散歩となった。

昨夜の人々の群れはどこに行ったのか、 マスクや襟を立てて通勤を急ぐ人たちがほとんどで犬を連れてお散歩する人たちも、いつもよりずっと少なく、昨夜のお花見宴会はうたかたの幻であったかのよう。

 ちょっと寂しくなった桜並木を、私は普段通り、いつもより長めの散策時間を過ごして 、午前中の日課である、望晃君の入浴をほかの小事を済ませての、ブログタイムである。

望晃君のおかげでのつかの間稲城ライフは、まるでちょっとした旅のような趣で、思わぬ 日々を送らせてもらえている。ありがたさがしみる春、こんな春は初めてである。

稲城だより、このように毎日書くとは、書けるとは思いもしなかったが、やはり孫と過ごすわずかな日々を、いくばくかでも綴っておきたいという、おじじの幻想のたまものである。

望晃君は両親の庇護のもと、生まれて最も幸せな日々を送っていると、この一週間そばにいて思う。爺バカではなく、娘夫婦の献身的というしかない愛情の注ぎ方を目にしていると、幸せな星のもとに生を授かったのだと、思う。そのことを一行きちんと書いておきたい。

赤ちゃんは、生まれてから数年の記憶がほとんどないので、映像や写真としての記録は残るが、おじじとしてのさやかな思い出を孫に残しておきたいという、おじじ煩悩が働いているのかも。

ともあれ、明日の午後には妻が、つまりおばばがやってくる。真の意味での三世代での暮らしが数日送れる。

妻は仕事を休んでやってくる。どれほどにか望晃君に会いたかったことか。男の私とはまた全く異なる感覚で、望晃君と触れ合うことであろう。

命の連鎖の厳粛な、表現不可能な望晃君の小さい輝き存在感は 、あまりにも柔らかく繊細で、とうの昔に、とうがたってしまったおじじをも溶かしてしまうのでは、と錯覚させてしまうほどに、寝入った時のお顔は神々しい。






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