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2018-03-09

1998年に亡くなった、母の命日の前日に想う。

明日は母の命日であり、敗戦の年の東京大空襲の日であり、明後日は東北津波大震災、原発事故の日である。

当時私は59歳、7年の時が流れた。あれから私自身の生活が表面はともかく、内面生活がやはり微妙に変化してきてるということを、実感している。

そのことに関しての、ことさらの言及は五十鈴川だよりでは控えるが、あきらかに身の回りの何気ない、当たり前の手の届く範囲の日常生活を大切にするようになってきた自分がいる。

それと先日も書いたが、無数のおびただしい想い半ばで、旅立たれた過去の死者たちのことを、のーたりんの私も遅ればせながらいくばくか考えるようになってきた。

いくばくか考えるようになってきて最近思うのは、 無知なるがゆえの渇望が、老いてゆきつつも、深まってゆくのだという我が身の実感である。

外見は老いてゆきつつも、内面はいまだ激しく揺れ動き、老いてゆく中で若いころには感じなかったことが、ようやくにして感じるようになってきたことが、あるという発見である。
宝石のような文章がちりばめられている、肩を押される。

例えば、シェイクスピア遊声塾を立ち上げ(東北の大震災がなかったらおそらく遊声塾はなかった)5年が経ち、今リア王という傑作に塾生共々、7月7日の発表会に向かっているのだが、作品を深く理解し味あうのに、この年齢で読めることの幸運を想うのである。

息が浅くなり、若い頃のようには大声が出せなくても、80歳のリアの息を、感情を発露するには、それなりの人生の辛酸を生きてきた感情の襞が、無駄なく生かされ、老いた息というものが、大いに役に立つということの発見である。

発見がないと、不特定多数の方に観ていただくという表現行為は、私にはできない。ささやかに私のエネルギーの根拠を、私の母を始め無数の声なき声の中に、わずかであれ見つけ続けたい。

末尾にアーサービナードさんの【日々の非常口】という随筆本の中に見つけた、村の夕暮れ、というエッセイの中の、(いまわの挨拶)という詩を(ロングフェローという方の)。

【見栄えは違うが、本当は老いが、若さに負けないくらいの可能性を孕んでいる。陽が沈み、夕闇が迫ると、昼間はまったく見えなかった星が、天いっぱいに現れる】






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