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2018-03-27

稲城だより④(満開の桜の下の早朝散歩でおもう)

稲城の桜並木の両側を挟んで、みさわ川という水深は浅いが、きれいな川が流れていている。22日に着いた時には二分咲きだった桜が、今朝はほぼ満開、川にそって満開の並木の下を気持ちよく、時折大きな鯉の群れの水遊を眺めながら、ただただ歩いた。

気が付くと、一つ手前の駅京王よみうりランド駅まで来ていた。引き返そうかと思ったら、ふと神社の看板が目に入ったので、これも何かのご縁とお参りをした。

たまたま同年輩の方が、お掃除をしていたので、少しばかりお話をしたのだが、私が孫に恵まれたので 、岡山からきていますと告げると、それはそれはと、丁重に対応してくださった。

一日の始まりで、郊外の新しき建物ばかりの中にあって、このような古く由緒ある鎮守の神社に詣でることができたのも、桜並木のお導きと感謝して引き返し、朝のさん策を終えた。

何度も書いているが、格言の類が齢を重ねるにつけしみるようになってきている。その中でも、私が重宝しているのは、犬も歩けば棒に当たるといういささか手あかがついたほどに知られている格言である。
 
思えば生来の気質というのか、この格言のような人生を送りながら生き延びた自分であるような気さえしている。だからなのだ、自分が 歩くことが好きなのは。特に旅先では当てずっぽうに風の向くまま、気の向くままとにかく歩く。ゆったりリズムの中で歩けることのありがたさ、至福感に包まれる。

ましてこの思わぬ稲城での禍福の日々、毎日ダイナミックに花が開花する 、見事というしかない桜並木の下を、歩ける妙。

【願わくは、花の元にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ】という有名な 西行の歌があるが、さもありなんと私なども首肯する。それほどに桜の花は日本人の心を惑わす花である。宮崎の地を幼少期から思春期、春は桜、転校した思い出の地の記憶が、鮮やかによみがえる。

私の場合のことだが、この数年同年代の友人知人の訃報が相次いでいる 、だからというわけではないのだが、私は死をかなり身近に感じるようになっている。そんなさなかの初孫の得も言われぬ輝きは、今後の私に無言の示唆を与える。

孫とともに、家族とともに一年でも長く桜の花を元気に愛でたいものであるとの、無心の欲が深まる老春である。




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