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2014-01-09

晴耕雨読、ウイリアム・シェイクスピア、冬物語を読む

農の仕事はお天気に左右される、したがって私の場合晴耕雨読という感じになる。昨日は急きょお仕事はお休みとなった。私にとっては恵みの雨となり、遊声塾初日の日であったので、家でゆっくりとシェイクスピアの冬物語を読むことができた。

世はまさに速読多読の時代であるかのような印象が私にはあるのですが、私自身は全くの遅読少読です。もちろんむ本にもよりますが。

冬物語を読むのは30数年ぶりです。シェイクスピアは37本も芝居を書いています。若き日、読んではいましたが、いま読むと全く初めて作品を読むような印象を持ちながら読みました。時折声に出しながら読み進むのですが、声を出しながら読むのがシェイクスピアはやはり一番、限りなく私の場合気持ちよく読めます。

声に出すということは、かなりの意識の集中を必要とします。歌を歌う感覚に近いかと思います。自分の体の感覚で、歌を歌うような感じで読み進んでゆくのですが、なかなかに大変といえば大変、だけれども作品の、何よりも言葉の表現力があまりにも、饒舌豊穣であるがために、その言葉を声に出したくなるのです。すると不思議に元気がみなぎってきます。

人間の言葉と言葉の衝突による劇的な展開は400年前に書かれているとはいえ、まさに現代にも十分通用するほどに、私をして魅了します。人間の苦悩や愚かさをこんなにも分かりやすい言葉で表現している劇作家を私はほかに知りません。昨年も書きましたが、晩年の楽しみの一つに何かが再び私をシェイクスピアの宇宙へと導いてくれたとしか思えません。

私がシェイクスピアに惹かれるのはなぜなのか、これからの人生声に出して読みながら考え続けてゆきたいものだと改めて思います。人間とはなんと愚かな存在であることか、悩み深く、罪多き存在、私自身もそういう存在である、そのことが、身につまされます。

これからの未来時間、畑を耕すような気もちで、シェイクスピの劇的世界を耕すように読み続けられたらもうほかに、私にはやりたいことは限りなく少ないという気さえ致します。ミュージカルにも、オペラにも、ダンスにも、狂言にも、歌舞伎にも、映画にも、シェイクスピアは姿かたちを千変万化しながら、時代をまたがって(越えて)蘇ります。

私の場合、高校2年生の時のフランコゼフレッリのフィルム(ロミオとジュリエット)との出会いが、
シェイクスピアとの出会いですが、またもや再び晩年時間にシェイクスピアと触れることになろうとは思いもしませんでした。生命力みなぎる、熱き言葉の洪水は、声を出すという極めてシンプルな行為で、私を豊かな言葉世界への旅にいざなってくれるのです。


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