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2014-01-18

大いなる眠りを迎えるための準備を、藤原新也さんの一文を読んで考える。

予期せぬ不注意で、カメラのシャッターが押せなくなり新しいカメラが手に入るまで、写真なしの文字だけのブログに、しばらくなるかもしれませんのでなるかもしれませんので、ご容赦ください。

個人的な、きわめて個人的なブログではあります。4年以上毎日ではないにせよ書き続けている我がブログを、わずかではあれ、開いてくださる方に対しては、ただただ感謝申し上げます。

私は会員制の、藤原新也さんのWM(定員2000名)の読者だが、お正月早々にご身内の方がお亡くなりになり、死に関してのブログが書かれていて、改めて死ということに関して、普段から意識的に、避けては通れぬこのことに、向かい合わねばならないということを、感じている。

数年前、肺炎になって以来、ほとんど病気には縁がなく、健康に働ける今現在の生活の中で、ややもすると、死を意識することははなはだ、困難である。だが、かすかにかすかに、我々というか、私は死に向かっている。

死ということに関しては、また繰り返し、繰り返し、ブログを書きながらであれ、何であれ考え続けてゆきたいと、あらためて思う。病気になったりすると、いやでも意識するが、健康になると、都合の悪いことは、人間はつとめて考えないようになっているのかもしれない、それもまた本能的なある種の防御と言えるかもしれない。

この間も少しふれたが、必ず己の人生には終りが来る。その時を、可能なら、、いかに迎えるかという、大きな問題を、普段から考え意識する訓練を、やれるものならやりたいと考えつつ日々を送り始めている、最近の私なのである。

農の仕事は、天の下でいやでも自分の体と向かい合わないといけないので、自分の体調管理に関して、きわめて敏感にならざるをない。自己責任(好きな言葉ではない)という言葉を、この数年よく耳にするが、自己管理というか、大人になるという感覚がきわめて薄い時代の趨勢を私は個人的に感じている。

私の両親をはじめ、私が子供のころに感じた、凛と覚悟を持った日本の大人の人のイメージはもうほとんど見かけなくなってきている。死に関しての、実感がこんなにも希薄な時代はおそらく有史以来初めてといっていいのではないかと思う。

ある意味で、死を身近に感じられる生活や、社会の方が健康なのではないかと私は考えている。そういう意味では、本当に今は不健康な時代だと思う。ケータイやあらゆる器機(危機)に取り囲まれ、きれいな身なりをしているが、心がうつろである。地に足がつかずふわふわしている。

実態のない言葉や、汗や肉体の希薄な言葉が、この数十年世の中を跋扈している気がしてならない。健康食品や、お金に振り回される生活の中で、己自身の体が発する感覚と向かいあう術を、私自身忘れがちになる。かけがえのない、自分という自然と向かい合わなければいけないと、私は感じる側に立つ。

そのことは、ゆめゆめ忘れてはならない。死と生は本来分けて考えられることではなく、人間は日々生と死を繰り返し、寿命となり、永久の眠りにつく存在なのではないかというのが現時点の私の認識である。

やがてエネルギーを放出し、大いなる眠りに安らかにかに向かうためには、何をしたらいいのかということを考えると、かすかな光のようなものが感じられてくる気がする。

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