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2014-01-26

妻のお誕生日に見た、たとえようもない母の菩薩のような笑顔

書く方は、気軽に書けるのですが、読むほうはこのような勝手感覚でしかないような拙文をはたして読んで楽しいのかどうかと、たまに考えてしまします。下手な考え休むに似たりともいいます。これがどのような意味なのかは、まるで深く考えたこともないのですが。

考えなくてはいけない、考えすぎてもいけないとの例えかもしれないくらいに、脳天気に考えています。何やらつづりたくなるという、この我がままなる自由感覚は、私にとっては何はなくとも、大切なひとときになりつつあります。

ところで週に5日働きますと、本当に週末が楽しみです。今日、明日は仕事がお休みなので、朝いつにもまして、ゆっくりとブログが書ける、ささやかな幸福感に包まれます。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。この往還がやはりいいのです。

さて、以前の私とは異なり、最近仕事以外ほ、とんど家から出かけなくなくなりつつある、私の暮らしです。そのことはあながち年齢のせいだけではないような気もしています。普段の暮らしの範囲の中では、何やら私が思う面白い出来事が限りなく少ないからです。

いろんな催しや、イベントは限りなく行われています、が、私の感性がおそらく時代の趨勢に対してそぐわなくなってきているからなのだと、私自身は認識しています。以前の私と異なり、そのような場に出かけなくても、それ以上にやりたいことや、やらねばならぬことが増えてきて、何やら生活そのものを、根底から変えつつあるからだと思います。

話は変わり、先日妻の誕生日で、母も含め家族4人で珍しく外食しました。妻には私のことはあまり書かないようにと、くぎを刺されているのですが、これからは折々ゆっくりと自然に書けるときに書いておきたいとの思いもしてきつつあります。

以前も書きましたが、これからは夫婦で過ごす時間が増えます。子育てがすんでから後のこれからは、お互いにまた新たな意識の転換、あらたな時間の過ごし方が始まります。おそらく数年もしないうちに、予想もつかないようなことが起こってくるような気がします。

映画のタイトルのように、時は止まることなくながれ、そして人生は続いてゆく。だからこそ面白い。ハラハラドキドキどんでん返しの人生。我が家の要である80歳の母が、珍しくワインを飲み、しみじみと、嗚呼幸せと口に出しました。

戦後、家庭を持ち、子育てをし、孫の成人までを見届け、娘のささやかなお誕生会での母の幸せそうな顔を、私は眼底にやきつけました。

もう私には、この母しか親がいないのですが、この母のあまりにも普通のモノの見方や考え方は、しきりに私にこれまでの私の生き方の方向転換を迫ってきつつあります。だからだと思います、私があまり家から出かけなくなリつつあるのは。

母が元気なうちに、いろんなことを教わっておかなくてはとの思いがするのです。そのためには可能な限り、一緒の時間を過ごし、いろんな話をしておかなくてはと思うのです。

この二日お泊りに来て、いろんな話をストーブの周りでしたのですが、少女時代の話、西大寺の昔の話、同じような話も聞くのですが、何度聞いても初めて聞くということが肝要です。母は昔の話を聞いてくれるだけで嬉しいのです。

こんなにもゆっくり話ができるのは、あらゆる意味で私に余裕ができたからです。18歳から親元を離れ、世の中に出た私は、実の両親とはゆっくりとした時間を持てる機会があまりにも少なすぎました。そのことが悔いになって残っています。

私の妻と母のなかの良さは信じられぬくらいの、母と娘の強いきずなを感じます。このような母のようなヒトに育てられた娘だからこそ、私のような輩とも結婚するという、広い海のような心の持ち主に育ったのかもしれません。

これ以上書く野暮は控えたく思いますが、ともあれ妻のお誕生会は、私にいろんな思いを抱かせ、一杯のグラスのビールで、幸せな時間となりました、帰りは娘が運転してくれました。







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