ページ

2013-12-22

年末年始は可能な限り静かに過ごしたいと願う、年の瀬の休日の朝


2000年西インドの旅で買ったガネーシャ

最近は小市民なんて言葉をほとんど聞いたことがない。小さき庶民、つまりは私のような輩は自分のことをどのように考えたらいいのか、皆目分からないが、こ難しい理屈抜きで私は自分のことをたんなる、ごく普通のどこにでもいる労働者である、という認識くらいしかない。

 

無知、無学歴であり、横着である私がなんとか生きてこられたのは、ヒトと巡り合う運がいくばくかあった(遭った)ということと、痛い思いをしながら、少しは知恵がつき、考えながら、後ろ向きに生きなかったからだろうと思う。

 

生きてゆくためにほとんどの人は、私も含め未曾有の忙しい時代を働いている。こうも忙しいと、人間は自らの頭で考えるということが、あだやおろそかになってしまうのではないかという気がしてしまう。ヒトは何故、かくも搾取(これもとんと聞かぬ言葉)されながらも生きるのか。

 

私ごときでさえ、いささかの不安を覚えるくらいだから、知恵の楽しみ、思考(考えるお安いご用)の楽しみ、を見つけるべく、初老の私は若き頃の自分とはまたちがって、じたばたと、思案、思案のしどころをお恥ずかしくも生きるのだ。

 

一寸の虫にもいくばくかの魂、我が身の魂が、どこにあるかなきかも、とんと深くは知らねども、こうやって何がしかの思案を積み重ねる営為は、奈辺から湧いてくるのかは自分でも、正直分からない。

 

だが、分からないけれども、湧いてくる。そのことに蜘蛛の糸のようにすがりつつ、生きてきたと言っても過言ではない、おそらくこれからも今しばらく。

 

こんなことを、2013年の年の瀬に考えられるなんてことは、ちょっぴリ幸せなことではないかという、自覚が私にはある。

 

読んだことはないのだが、ロシアの小説家のタイトルに、知恵の悲しみ、というのがある。知らぬが仏、ということわざもある。五木寛之氏は今の時代を鬱の時代と喝破してもいる。

 

ゆめゆめ油断せず、地に足のついた夢を見るべく、年末年始は静かに過ごしたいと考える、五十鈴川だよりである。

 

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿