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2013-12-11

齢61歳、再びシェイクスピアを読む


さて、起きて間もなき、水曜日の朝である。今日は長き一日の日打が、とても楽しき日でもある。遊声塾の日だからである。農業で働いた後、声を出すことはなかなかに、一言でいえば楽しいのである。

 

4月の末になんとか立ち上げたものの、塾生が集まるのかか細き一抹の不安が無きにしも非ずのスタートであったが、なんと4人の生徒さんが、この師走も声を出し続けていることに関して、私は意味もなく、嬉しく思っている。

 

それは量ではなく、この生徒さんたちとシェイクスピアを声に出して読むひとときが、とても以前にも増して楽しくなってきているのである。やりがいのある仕事に巡り合えたことで、生活のことを全く気にせず、塾が続けられるようになってきたことも大きいのだが、何よりも塾生の変化が感じられ、いきいきと声を出していることが嬉しいのである。

 

人間が何よりもいきいきとしている姿ほど私を感動させるものではない。若き頃演劇を学んで心から良かったと思うことは、人間は自分の中に自家発電装置を生まれながらに持っているということに、気づいたことである。

 

自分自身を掘り続けてゆきさえすれば、そこに必ず何がしかの自分というえたいのしれない存在の中に、宝物が見つけられるかもしれないという、(可能性があるという)確信のようなものが見つけられたことである。

 

それは他者と比較してえられるものではなく、自分自身と対話し、動かし、悩み、考えながら、自律的運動を続ける中からしか見つけられない類の、何かなのである。

 

今すごくシェイクスピアを、この年齢で塾生たちと共に声を出すことに、出せている今に、なんとも言えない喜びが私の中に生まれている。老齢になったリア王の台詞、若いころとは全く違う感じで、私の今の身体をかけ巡る。

 

今、再びシェイクスピアの塾を始めたのは、やはり何かがきっと今、再び私をシェイクスピアに巡り合わせているのだと、感じ始めている。

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