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2012-06-25

落ち着いて考えられる自由・身体が動ける自由

考えるために読む本

私が塾を始めた百花プラザは、図書館があるのでこの4月からかなりの頻度で図書館通いが始まった。運動公園も併設されているので、犬のメルの散歩とは別に、ささやかな外での運動も併せてするように、心がけている。



数年前から始めた懸垂も、広場のぶら下がり棒をおもに利用している。週に3日はこの百花プラザを利用している。おそらくここは、私が晩年の生活のベースになるのではないかという気が最近するようになった。



身体を動かし、ブログを書き、本を読み、何か一つ外国語を学び、筆文字を書き、散歩をし、妻のガーデニングを手伝い、たまには料理をし、雑巾がけをし、好きな映画をDVDで見て、仲のいい友達と話をし、月に一度、ボランティアで子供たちにナイフの使い方を教える、などなど、晩年の暮らしの基礎を、考えている。



下の娘が、自立するまでは今しばらく働かなければいけないが、親の責任が終わればやがてはなるべく社会のお荷物にならないような晩年ライフを、今からしっかり見据えておかなければいけない、そんなことを特にこの4月から意識して生きている。



するとどうなったか、ほとんど家にいる限り、お金を使わなくても生きられるようになってきたのである。昨年、マイコプラズマ肺炎で退院してから、180度私の暮らしは変わった(友達との付き合いも、こんな私でよかったらという感じで、無理しなくなった)良く睡眠をとり(とにかく早寝早起き)身体をいたわるようになったと思う。オーバーに言えば、自分の身体、その日の体調と話をするようになってきたのである。



決して無理をしなくなったのだ。眠くなったら寝て、眼が覚めたら起きる。昨夜は9時前には床に着き、今朝は3時過ぎに眼が覚めたので、床の中で今日やることを、おもむろに考え、3時半には床を片付け、いろんな準備をして、コーヒーを入れ、ブログしているというわけだ。



一日を、可能な限り何事も意識して生きる、という訓練をすることによって、ことのほか毎日が楽しく感じられるようになってきたのである。これはお金を消費して、得られる(それはそれで楽しい)喜びとは、一味異なる喜びなのである。



哲学とは、考える学問だと思うけれども、良く生きるとは、つまるところ考えることを楽しむ(苦しむ)ということをやめないということだと、思う今の私だ。






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