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2022-01-28

1月28日金曜日、真冬の早朝の五十鈴川だより。

 早朝の冬は身が引き締まる。今朝はまだそんなに厳しい朝ではないが、大寒から私が生まれた日くらいまでがもっとも寒い冬なのだと思う。この冬の朝を乗り切れば梅がほころび、日もかすかに長くなりはじめ、寒暖差を繰り返しながら、春がやってくるというわけだ。

私だって人間だから、冬の寒さがこたえることは多々あるのだが、いつも想うことは暖房器具などのなかった昔人たちの、とくに大多数の一般庶民たちの暮らしである。靴下なども潤沢にあるはずがなく、穴の開いた靴下を私などもはいて小学校に通っていたものである。今は昔という言葉があるが、なれというものは恐ろしい。

生活ベースを基底において思考してゆく、物のありがたみがわかる。低いところから世の中を眺めてゆく癖を感知する、そのことが、私には面白いのである。お金もかからない。

話は変わるが、今年から週一回くらいのペースでウォーキングをはじめてすでに5回歩いている。今週末妻と二人で、6回目のウォーキングをする予定である。無理なくいかに面白く自分なりのコースを見つけられるのか、という新たな愉しみが湧いてきつつある。

それにしても、肉体労働といい、ウォーキングといい健康にひざや足腰が動いてくれなかったら、まったくかなわないのだから、在り難いことこの上ない。ほんとうに手術後私は体のコンディションに留意するようになってきた、(感がある)。

再三打っているかもしれないが、見たい番組などがあってもほんとうに目に蓋をするかのように午後9時半までには、床に就くように心がけている。そしてできるだけ規則正しく起きるように心かけている。

冷えたコーヒーを温める

命を、生き方を見直す。間もなく、術後1年近くになるがすこぶる体調がいいからこそ、ウォーキングも思いついたし、音読塾をはじめ、企画などもやりたくなってきたのは、まず間違いない。五十鈴川だよりも、以前にもまして肩の力が抜け、柳に風のような按配でその日の風まかせ気分で、打っている。

いつまで打てるかにはまったく関心がない。 いま、今日、1日をできるだけ悔いのないように過ごす、そのことにしか関心がないというか、コロナ下のこの2年以上の生活、古希を目前の日々の生活の中で、老いつつもずいぶんと鍛えられているのだとの実感がある。

やがてコロナが終息することを願いながら、この今の閉塞環境をいかに倦まずに生きられるか、生きられないか、と自分との問答を繰り返す日々である。倦まないように今日という1日を、できるだけよき日にするためにも、無明の闇の中を生きた先人たちに想いをはせ、今日を生きるばねにあやかる私である。

寒さになど、負けてはいられないのである。寒さの中でやれる面白いことを、陽が沈むまでは働くことも含め見つける。それこそが老いゆく今の私の一番の愉しみである。【靴下の・ありがたさかな・冬の朝】


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