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2022-01-23

ヒダカトモフミのシェイクスピア音読自在塾は、ささやかに【企画も妄想老人として具現化して再出発】したく思います。

昨日午前中ヒトに会い、今日も午後、ヒトに我が家で会うことになっている。今日会う方とは、岡山に越してきて、この30年の間に電車の中とか、とある場所などでお目にかかることがあり、めったには会うことがないので顔はほとんど忘れているのだが、向こうは私の顔をよく認識していて話しかけられるのである。

特段に深い交流が続いている関係の方でまったくなく、どちらかといえば今までほとんど交流がないといった方なのだが、今回どういうわけか、私の方からお電話をして我が家に招いた方なのである。

なぜそういうことになったのかは自分でもよくはわからないのだが、古希を迎えるにあたりこのコロナ渦中ではあるが、そのことを踏まえ、コロナがいつの日にか収まった時に、何か私にやれそうな企画を、どういう風の吹き回しか、10年ぶりにやりたくなってきたのである。

還暦を迎え、企画をすることはもう十分にやったので、煩雑なことをインターネット時代にてきぱきと処理することも含め億劫になり、限られた人生の持ち時間を考えた時に、やりたかった音読に情熱を傾けたくなり、遊声塾を立ち上げて、音読にどっぷりとつかる60代を過ごしていたさなか、そこにコロナが顕れたのである。コロナは長引き、私は遊声塾をあきらめ新たに一人で音読自在塾を始めることにしたのである。

孫たち世代に何か伝えられる企画を為したい

全世界に猛威をいまだに振るっているコロナ、オミクロン株の国内での急激な6波の拡大の最中、閉塞感が極まる中、私はもうすぐ古希を迎える、そして私は考え、思いを全身に行き渡らせる。このまま老いてゆくのかゆかないのかと。なぜ音読自在塾をやりたいのかと。

結果、私は今またどういうわけか、再び音読だけではなく、実現できるかどうかはさておき、私がかって中世夢が原で企画をしていたことなどを知らない人たちが(孫たち含め新しい人たち)随分いるし、まあそういったことはどうでもいいのだが、早い話、音読しながら企画者としての私も、老骨に鞭打つのではなく、老骨を愉しみ、その気骨を示すような企画が打てるのではないかという気が、何とはなしにまるでお告げのようにわが体に湧いてきたのである。

昔の私は若く元気であったので、おもい付いたら即行動に移せたのだが古希の躰ではそうもいかない。だが、やりたいという湧き上がる情熱は依然と全く変わらない。その情熱の根拠が自分の中であきらかであれば、思案しながら緩やかに歩を進められる。走るような企画ではなく緩やかにしか歩けないような、地にしっかりと軸足を置いて、老い人の揺らぐ企画を打ちたいのである。生きているうちに。

だから新しい縁のあるこれはと思える人物に声をかけ、何か 老若男女が楽しめる私らしい企画が、古希ならではの企画ができるのではないかとの変な自信、妄想老人的な想いが忽然と湧いてきたのである。

そのことを、こうして五十鈴川だよりに打ちながら、コロナ下、冷静に 自粛蟄居生活をしながら実現に向けてプランを練り続けたいのである。そのためには、これまでとは違う新しいヒトと出合い、私の思いを直接伝えることから始めることにしたのである。

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