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2022-01-15

【木枯らしや・父の言葉が・古希浮かぶ】今朝の朝に想う。

 肉体労働のない休日は早く起きないことに今年から決めた。7時近くまで布団から出なかったのは、多分思い出せないほどに昔である。だが間もなく古希を迎える今年から、生活を緩やかにシフトチェンジしながら、けっして無理はしないように、そして体のケアーをしながら過ごそうと決めたのである。

ところで、昨日、そして一昨日と風が冷たく外ではかなり厳しい寒さの中での労働になり、私の中で瞬時ためらう気持ちがわいたのだが、考えを変えてとにかく現在の体がどれほどこの寒さと風に耐えられるかを試すにはちょうどいい機会だと思い仕事に向かった。

こまごま打つのは控えるが、結果は一昨日はフルタイム、昨日は家族との約束があったので半日、無事に働くことができた。とくに一昨日は体感温度を厳しくする風の中を終日動いたし、今年初めて手の先がかじかんで、結構難儀したのだが働けた。

職人的にというとオーバーだが、自己責任、まかされているので切りのいいところまでやっては、熱いお茶で体を温め、休んでは動き休んでは動きをひたすら繰り返していると、庭木の剪定や、フェンスに絡みついたつる草の枯れたのがとりのぞかれ、働いた分だけの仕事が片付いている。

この達成感が私に合っているのだろう。結果的には やったぶんだけの仕事を十分にこなすことができた。このことはこの先これ以上の寒波がやってきても、十分に対処できる自信のようなものを私に与えてくれた。

この十年来の夏の暑さもそうだが、年相応にこたえる日が多くなってきつつあるのは事実なのだが、それをうまく乗り越えるすべのようなものを模索している。

お正月早々素晴らしい本にめぐりあえた
とくにこの数日の寒さは、青春の終わり、31歳から34歳まで過ごした富良野での体験を思い出す。足掛け3回厳冬期の富良野での体験が、今の私の労働をどれだけ支えてくれているのかがよくわかるのである。

あの四季を通しての、だだっ広い大地の上での過酷な労働体験を通過してからというもの、私は以後の肉体労働というものがいまだにつらいと思ったことがまずない。まさに人生観を変えてたのだなあ、と今にして想う。

もうちょっとやれば終わるというおまじないのような言葉を何度もつぶやきながら富良野ではじめて本格的な肉体労働を四季の中で体験できたことの、あり難さをいまだ感謝せずにはおれない私である。

【木枯らしや・父の言葉が・古希浮かぶ】。人生の持ち時間が少なくなるにつれて亡き父が若いころの苦労は買ってでもしろと、繰り返し言っていたものだが、その言葉の重みがいまにしみてくる私である。若いころの艱難辛苦が今の私を支えている。

まったく人生は長距離レースであることをいよいよもって知らされる古希間近である。いつまで続くか先が見通せないコロナ下、根気比べのように天の下での一人労働を自問自答しながら愉しみつつ春を待つ準備をしたい私である。

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