ページ

2019-09-08

無名の平凡な人生の奥深さを想う夏の終わり。

日の出が遅くなってきた。虫の音が聞こえる。昨日夕方見えた半月は今はどのあたりに見えるかしら、二階の窓からの視界からは見えない。日中はまだまだ日差しが厳しい。涼しい朝くらいしか、五十鈴川だよりを書く気にならない。

声を出すための肉体労働トレーニングバイトを、喜びの糧、礎としたい私としては、今しばらく辛抱をしながら平日を乗り切り、日中も涼しくなるのを待つほかはない。

とは言いながら、この夏は夕方図書館によく行き本を随分と読んだ。本を読むことに集中し、いろんな刺激を受けながら暑さをしのいできた夏なのである。私の場合は体を動かす動的時間と、文章を綴ったり、筆で文字を書いたり、本を読んだりの静的時間の往還こそが、今を生きる循環ライフなのである。

おそらく、これからの時間の8割はこのような形での暮らしが、元気な間は推移してゆくことを願っている。元気に動ける時間をこそ、いよいよもってこれからは大事にしなければと、おもう。だからこれからは、人から見たらますます頑固な暮らしへとシフトしてゆくような、ある意味でまるで私の父が囲碁ばっかり打って晩年を過ごしたような、塩梅になってゆくのではと考える。やはり血は争えないという、自覚が深まる。

ところで、レイさんからいただいた五十鈴川だより、読み返すことがなく続いてきたのだが、ちょっぴりと読み返してみたのだが、一言でいえば、お恥ずかしき思い付き一文を書いてきて、旅の恥は書捨てではないが、よかった(まだ途中ですが)という思いである。

かってに先生だと思っている、思考の柔軟さに驚嘆する
書き続けなかったら、きっと今の自分はオーバーではなく存在していない、とさえ思えたほどである。

自己正当化であれ、自己満足であれ、自己慰撫であれ、理屈はどうでもいい、何であれ今を生きる自己対話のような思い付き戯言を、継続持続してきたからこそ、あきらめつつも、あきらめなかったからこそ、今日もまた日が昇り、何かを綴れるということの、子供じみた初老の喜びがある。

声を出すことも含め、愚直に何事も継続持続することの大事をことのほか最近実感する。人間は日々同じことを繰り返すことの中で人生時間の大半を、私も含めほとんどの人は過ごして、一生を終えるのだと思う。若いころはそのことの意味、大事さがちっとも理解できなかった、朴念仁の至らない私であったが、ゆるやかに緩やかに、その平凡さの、何という裏返しの非凡さが沁みるように、老いるにしたがってわかり始めたのである。

だから、この先老いること、老いを見つめてゆく五十鈴川だよりにますますシフトしてゆくだろう。私よりもずっと高齢で高名な達人的な方々ばかりではなく、私の母のような、私の両親のような、無名でしっかりと生きた人たちにあやかりながら、これからの時間を過ごしたく思う、五十鈴川だよりである。



0 件のコメント:

コメントを投稿