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2019-09-21

誰が故郷を想わざる、ジョージアならぬ、五十鈴川・オン・マイ・マインド。

日曜日から生れ落ちた地へ帰ろうと思っていたが、台風の風雨の影響で日豊線や新幹線のダイヤが乱れるかもわからないので、延期しようかどうか迷っている。

この老いゆくにしたがっての望郷の念は、いったいどこから来るのであろうか。いろんな分析が可能かもしれないが、私はそういうことにはあまり興味がない。私の生まれた生家は今ないし、門川の街の風景も日本のほとんどの地方都市と同じように、人口が高齢化し過疎化が進み、さびれている。

がしかし、姉や兄が元気に健在で生活しお墓を守っている。今年の冬はご先祖の地でしっかりと地に足をつけて生活して居る私より年上の素敵なご夫婦とも巡り合うことができ、前回の帰省では、ご先祖の地で炭焼き仙人となった小学校の同級生とも奇蹟的な再会が起きるなど、元気なうちに会いたい、話をしておきたいという方がいる。しかも二組のご夫婦とも姓が同じ、深い縁を感じる。

そしてもう一人会いたい方ができた。この冬の帰省で巡り合えた、兄の家から歩いてゆけるところにある幸節館という弓の道場の主であるI先生との出会いである。御年82歳、ご自分の作った道場で奥様共々今も弓をひかれている。生家のすぐそばに在る幸節館からは、我が家のお墓の場所が望める。素晴らしい場所、生家が引っ越ししてきたかのような。

五十鈴川だよりにきちんと書いて、写真もアップしている。岡山での弓の時間は、意が進まなくなってしまったが、帰省の度にこの幸節館の先生とは、元気な間は必ずお会いしたいと思うほどに、この道場そのものといってもいい先生のたたずまいに撃たれたのである。

言葉や理屈では何とでも書ける。会えるうちに会いたい人には会いたい、ただそれだけである。気持ちの体がゆきたい、会いたい、帰りたいというのだからそれに従うだけである。
小学校時代の同級生が仙人になり、焼いた見事な備長炭に感心する花

大昔、ヒトがまだ文字や言葉を持ち合わせていなかった時代、文字を書けなかった圧倒的多数の一般庶民は、どのようにして気持ちを表して生きていたのであろうかと、ようやくにして、歴史年表にない無名の人々のご先祖の地での人々の生活、歴史に想いを巡らすようになってきた私である。

オーバーではなく、これまでの自分の及ばなかった、感知しえなかった、もっと書けば今を生きるにいそがしく、遠ざけていた世界のよしなしごとに、どういうわけか関心が湧いてきたのである。

五十鈴川という川の名の由来をはじめ、門川町、私の原点感覚を育んだ故郷のことを、私より年上の方々のお話をもっともっと聞きたくなってきたし、知りたくなってきたのである。

落ち着いて書いていると、思考の整理ができる。絶対矛盾、感情を言葉でもどかしくも整理し、揺れる思いをつづる。

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