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2019-01-07

ちょっと寂しい、普段通りの我が家になりました。

約11日ぶりに夫婦二人だけの静かな朝を迎えている。昨日午前中娘夫婦と望晃くんを岡山駅まで送ってゆき、元の生活に戻り、我が家のお正月も終わった。

私の中でも 普段通りの生活に戻る。2019年ははたまたどのような年になるのか皆目わからないが、確実なのはまた一つ歳を重ね、緩やかに死の世界の方にシフトしてゆき、自分の現在地を確認しながらの、日々を送ることになるだろう。

昨年、ネガティブケイパビリティ(うまく翻訳できないのでそのまま)という言葉を本を読んでいて知ったが、身体が老いてゆく中での成熟ということ について、可能なら考え続けながら、日々を送りたいと思案する。

私の書くことは、ややもするとオーバーになりがちであるが、どこか妄想性というか、ここではない、どこかあらぬ世界のことなどを想像する癖のような体質がないと、臆面もなく五十鈴川だよりのような、あるがまま、わがまま拙文はつづれるものではない。

この数年、書き始めるまでほとんど何も考えず、書き始めると何やらの一文を綴るような按配。自分の中の何か(おそらく存在の不確かさ)を鎮めるための、いまわの際的、おまじない五十鈴川だよりになりつつある。(ような気がしている)


凄いスピードで娘の離乳食をほうばる望晃くん、生命力そのもの。
さて望晃くんの 生誕で、現実におじじとなりいやでも孫の存在は、現在の私の今後を多面的に照らす道しるべのようにさえ時折感じている。

とはいっても、私は単なる爺バカになるつもりは毛頭ない。只今感じているのはただただ一人のおじじという人間として、恥ずかしくはないおじじになりたいという、極めて普通の感覚がより深くなってきつつある。(とおもう)

最後の日の夜、家族のこれまでのささやかな歴史である写真のアルバムを、レイさんや娘妻、母と共に夕食後見入った。

現在の望晃くんと同じくらいのころ、私が娘をお風呂に入れている写真 に見入った。あれから30年近い歳月の末の現在である。

様々な感懐に私がふけるのも致し方あるまい。事実は小説より奇なりである。つづっていると妄念が、妄念を呼ぶ五十鈴川だよりであるが、今年も静かに、時に流れに逆らって老い力を蓄えるための方法を思案したい。

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