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2019-01-01

2019年、あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。わが拙き五十鈴川だよりを読んでくださっている方々に、こころからの新年のお祝を申し上げます。

何はともあれ、新しき年が明けました。いつまで五十鈴川だよりが書けるかは存じませんが、今年もとりあえずは書ける情熱のある自分がいることを緩やかに確認しながら、うちの中に湧いてくる言葉を通して、日々の自分の揺れる在り様を綴りたく、と祈っています。

この数年近所に初日の出を眺めに出掛けていますが、今朝は望めるでしょうか。望めなくても3が日のうちには望みたく思っています。

毎日日は昇り沈むわけなので、時に、ことさらにとは横着な私などは思うのですが、やはり年が改まると、一つの長い伝統の厳かな儀式として、大切だと思う気持ちは年々深まってきます。

この年齢になると、やはりどこか体がいつおかしくなっても当たり前、相応なのであるから、そうなった時になるべくうろたえないための、なにかを少しでもわが心と体のどこかに、蓄えられたらなあ、と今年も念頭に当たりおもう私です。

ともあれ、昨日は家族全員で極めて当たり前ごく普通に健康に年越しができました。とくに母が健康に、年越し小宴会に元気に参加できたこと、またそこに昨年までは存在しなかった望晃くんが加わったことも含め、あきらかにわが家族もそれなりの変容を、生きています。生きていることはまさにそれぞれが変容してゆくことにほかなりません。

ですが、この厳しき時代の趨勢のなか、全員そろって笑顔で過ごせたこと、その一点における我が身のありがたき幸福に感謝しました。

健康に動けることをはじめとして、極めて当たり前、当然だと思えることが、実はまったく当たり前ではないという、極めて深い気づきは、私の場合歳と共に感じています。

もう何度も五十鈴川だよりに書いていますので、ことさらに書くことは控えますが、おそらく今後もまた、永遠と一日的な感じを、私が持てるような感覚がある間は、繰り返し書くことになるのではないかという気はしています。


ところで、いつものように話を変えますが、先日養老孟司先生と、CW・ニコルさんとの対談集【身体を忘れた 日本人】という本の中で、養老(いい苗字ですね)先生が、世界が変わらなくても、自分が変われば世界は変わって見えるということをおっしゃっていました。

然りと、私はうなずいたのですが、バカの壁的に自分という存在を枠にはめるのではなく、いい歳をしてなどという世間的な色眼鏡に惑わされることなく、歩みは遅くとも、ささやかに変化しながら、自分にとっての気持ちのいい過ごし方を心かけながら生きてゆきたく思う、年頭のわたしです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。





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