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2018-04-28

66歳の春、五十鈴川に還る日の朝のつれづれ。

高齢者の運転での事故がこのところ急激に植え、社会的に話題になることが多い昨今の世相の中、私が宮崎まで運転して帰るということに対して、妻がとても心配するようになってきた。(心配だから一緒に帰省するそうです。本当は望晃くんに会いにゆきたい)

当たり前である、ずっと一人で行きも帰りも高速を運転するのは、私もちょっと億劫である。だから私は、休み休み低速運転で帰ることを最近は楽しんでいるのだが、遠からず汽車やバスを使っての気まま帰省旅におのずから変えようと思っている。今回は妻も運転してくれるので、ちょっと気が楽である。

老いるということは、普通にできたことができなくなるのだから、家族に心配までかけて運転しようとは思わない。老いては子に従えというのは一面の真実である。

幸い私は、汽車やバスでの旅だって嫌いではないので、元気な間は五十鈴川のほとりに立ちたいという、いわば幻を追うかのような、幼年時代への回帰旅は、きっとぼけても内面的には終わることがないのではないかという気が、今はする。

ともあれ、だれもこのように長生き時代がやってくるなんてことは、予想だにしなかったのであるから、シェイクスピアが言っているように、生まれてくるのも消えてゆくのも、意のままにはならないのである。

思うようにはなれない、ならない人生話を、いかにして下ってゆくのかがこれからの運命である。一回こっきりの人生の過ごし方は各人千差万別、私は私なりに下ってゆこうと考える。

この歳になってもふるさとに帰れるかと思うと、うきうき、いつもよりも早く目覚めて、五十鈴川だよりが書きたくなるというのは、我が身の宿業だが、ありがたい業だと私は考えている。幸福とは何か、いまだ私は考える。考える楽しみをささやかに追及する、やめない運動。

安心して帰りたいところが、帰れる場所が、この世に在るということのありがたき幸せを想うのである。人生の折り返し点はとうの昔に過ぎていて、アンチエイジングや、ついてゆけない、またついてゆく気もない、健康長生き志向があふれる世相だが、私は何事もほどほどがいいのだ、の側に立つ。そんなことより、今をいかに生きるのかが肝心だ。
この方の本長年愛読している

だってこれまでの人生、振り返るとよくもまあ生き延びてきたものだとの、運の良さの認識が強く在るからである。とうの昔に消えていても何ら不思議ではない出来事を私は経験している。何度も書ているが、一寸先何が起きるか、予測できないのが、人生の真理である。

だから置かれた可能な範囲で、悔いなく生きるのである。青春期、黒澤明監督の【わが青春に悔いなし】という映画を見て感銘を受けた。思えば、いい映画に若かりし頃いっぱいであった。今でもわが脳裏にはその映像がかすかに残っている。

最近見た映画はすぐ忘れるのに、若いころに視た映画は記憶の片隅で今も私を支えている。つくづく何かに出遭うタイミングの妙で人生は大きく展開する。

とりとめなく、わが五十鈴川だよりは今朝も流れて、出発の時間が来たので今朝はこれにて、戻ってくるまで筆をおきます。




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