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2018-04-23

来月85歳になる母について、思う。

土曜、日曜と暑い日が続いたが、母と妻とのいつものコンビで、土曜は母の家の、昨日は我が家の菜園場の夏野菜の土づくりを両日とも午前中とも涼しいうちにできた。

ささやかな菜園場であるが、母が元気なうちにいろんなことを学んでおきたいのである。5月は母85歳になる。有難く元気である。

老々介護や、介護に関する諸問題でのニュースにならない 日がないくらいの、(心が穏やかになるニュースもあれば、陰惨の極みまで)昨今のわが国の世相だが、遅かれ早かれわが家にも、訪れてくることは、避けて通れない摂理である。

が、幸いにして母の自立の生き方のおかげで、わが夫婦は働くことや、私も好きなことが今のところやれている。娘たちも巣立ちともに住もうと誘っても、いまだひとりが気が楽らしいのでそのようにしている。
弓は私に内省を生む

健康体であの年齢で過不足なく、きちんとひとりで生活し、だれにも迷惑をかけず、世話にもならず、絶えず我々や、孫のことにまで細かい配慮ができるなんて、まったくもって見事というほかはない。 
中世夢が原を退職してからは、母と妻との週末時間を大事に過ごすように心かけていることはたびたび五十鈴川だよりでも書いているから、重複は避けたいとも思うが、感心することしきりの母の老い楽ライフである。

どうしたらあのように生きられるのかを、間近で接しながら想い、考える。もちろん持って生まれた資質、運もあるとは思うが、小さいころの暮らしの中での両親の育て方、生き方というものが、大きいのだということがよくわかる。我欲に遠い生き方。

三つ子の魂とよく言うが、本当にそうなのだと思い至る私である。自分のことはさておき、他者のことをあそこまで思い至れるということに。

ほとんどどこにも出かけず、万巻の書物を読まず、(新聞だけはよく読んでいる)芸術や文化に触れず、見栄を張らず、庶民の極みではないかと思えるほどの、つましくも豊かに生きられる実践力に、私は打たれる。

この年齢になって、私は多岐にわたっていい意味で反省するように心かけている。自らを元気なうちに省み、内省的に、努めて母のようにじっと足元を見つめて静かに暮らせるように心かけようと思っている(でもまあ、男である性の私は、今しばらくじたばたするだろうが、できるだけ自然に、正直に)。

最近母と私は、冗談を飛ばしあう中である。その母が私の運転で近場をあちこち連れて行ってくれと(肥料などの重い買い物、山菜取りや温泉などなどに)頼んでくる。そのことが私はうれしい。


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