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2018-04-07

娘の用事で叶った、思わぬ調布での出来事。

春の強風が吹く朝である。稲城から戻ってきてから、今日で4日目、時差ボケではなく、やはり環境が異なるところでの、わずか2週間弱での生活でさえ、これだけ体がいつもとは異なる感覚になるのだということを感じながら、五十鈴川だよりを書いている。

老いてゆくにしたがって自分の体が、ますます都市化してゆく現実に、取り残されてゆくかのよう感覚を、稲城でのわずかな娘夫婦との生活で私はもった。(このようなことを書くといささかさみしげでああるが、新しい生命が輝き、老いたるものは静かに退場してゆくのが摂理である)

あらためて、自分の体は土に近いところでないと、生き(呼吸)苦しくなる なる体なのであることを再認識した。(ああ、またもや五十鈴川が私を呼ぶ春である)



エルンスト・バルㇻの彫刻



話は少し飛ぶが、上京してすぐ、18歳から3年間、世田谷の井の頭線東松原に在った、貝谷芸術学院の演劇科夜間部に通ったのだが、そこで知り合ったTくん(二年前に他界した)の家が京王線の調布に在り、何回か彼の家に泊めてもらったことがある。

その後、貝谷芸術学院を出てから、人生の進路をどうすべきか、悩みに悩み続けながらの20代の前半、京王線沿線のつつじが丘や、上北沢の小さなアパートで生活していたこともある。

 あれから40数年の時が流れ、運命の針は一回り、今長女の住む稲城と次女の住む千歳烏山は、京王線沿線の駅である。(今回千歳烏山駅周辺を、妻と共に26年ぶりに歩いたことは近いうちにまた書きたい)

京王線沿に乗るといやでもおうでも、当時の沿線の風景とのあまりの様変わりに、こころが揺れ青春の光と影が蘇る。(変わらないものがあるとほっとする)

とまれ、こんなことを書始めたら際限なく書くことになるので止すが、調布は二人の娘の住んでいる間に位置する駅であり、青春時代の思い出の駅である。

駅とその周辺のあまりの変容には言葉もなく、私の青春時代の辛くも、今となっては甘美な記憶の面影は ない。もちろん当時はなかった地下3階を京王線橋本行きが走り、稲城駅は各駅停車で調布から4番目の駅である。

(エスカレーターを使わず、地下から地上まで階段を数えて歩いたら120段以上あった。都会は歩けなくなったら、高齢者には過酷な人口都市である)

その調布に娘の用事で今回稲城から出かけたのだが、用事を済ませた私は、約半世紀ぶりに、駅から歩いて十数分、T君の家のあった下石原あたりを歩いてみた。

風景は一変したものの、旧甲州街道はそのままで、駅から遠ざかるにつれてかすかに、半世紀前歩いた記憶が蘇ってきた。

当時T君の家は、平屋で金物屋さんを営んでいて 広い敷地には樹木が植えられていて、都心から遠くのどかだった。今はビルディングになり、お兄さんが家を守り一階で金物屋を営んでおられた。

私は思いもかけず、お互い記憶は薄れていても、面影の残るお世話になったお兄さんに、ご挨拶をすることがかなった。




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