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2014-03-26

老いつつ、声を出し続け、身体と精神を可能な限り磨き続けたい。+

雨、以前も書いたがサンナンの農部門は、臨機応変なので、私の場合晴耕雨読となる。
学ぶ体を維持する

こんな感覚は初めてなのだが、娘が二人とも成人し、限りなく親としての責任が軽くなったことが大きいと思うが、経済的な負担が少なくなったせいで、、心身が実に解放された生活を、ようやくにして送れている安堵感が、今の私を包んでいる。(が、夢夢油断は禁物である)

これまでの経験を生かし、新たな晩年生活をいかに生きるか。61歳からスタートしたので4月からいよいよ、2年目に入る。先のことはともかく、この2年目を一日一日しっかりと生きること、それしか今の私は考えていない。

これまでもそうだったが、なにはともあれ自分なりにしっかりやる、そのことが一番大切だと考えている。自分の身体の変調や痛みは、自分にしか感知しえない世界だから、他者に理解してもらう前に、何よりもまずは、自分との対話が大切だと、ますますこの年になって考える。

自分との対話などと、ごたいそうなことに書いているが、私にとってブログを書くことは自分との自己調節対話、という感じになりつつある。特に五十鈴川だよりなってからはそうである。

なんとも厄介な自分という不確かな存在と、何はともあれ、毎日付き合ってゆかなければならい。

何やら、哲学的な感じの雨の朝のブログだなあ。知恵の悲しみ(読んではいないがタイトルが気になった)というロシアの人が書いた本があったと記憶するが、そういうことも言える、さもありなんとも思う。

さて話は変わり、水曜日は遊声塾の日である。いつもは畑から家に戻って、着変えて一休みして、頭のチャンネルを切り替えて天神山プラザにゆくのだが、今日はいつにもまして、早めにスイッチを切り替えられるのでありがたい。

ところで遊声塾に、2月から27歳の思わぬ若者が参加してきて、確実に面白くなってきた。今現在5人の方が参加されている。皆忙しい方ばかりなのだが、続けられている。このご時世に月謝を払って、私の塾に参加されている方々は、単なる生徒ではなく、とても近しい人たちになりつつある。

何より、私自身が生徒さんからいろんなことを学んでいる。レッスンも試行錯誤の連続である。一人ひとり、なんと鮮やかに個性的であることか。声を出すことで、思わぬ声の出る自分という器の魅力に気づいてほしいのである。

レッスンは、熱心にやっている。かなり追い込まれるが、追い込まれればいやでも無心になる。この無心になって、集中するということが、現代生活では失われて久しい。

あえて言えば、集中する楽しさを、現代人の身体の多くは失っているのではないかというのが、私の認識だ。このつたなき我がブログでさえ、いささかの集中する力が備わっていないと、紡ぐことはかなわない。

継続、あきらめず、そのまごうかたなき反復練習の中にしか方法はない。苦楽はセットである。分けられるものではないのだ。そこに敢然と立ち向かうしか方法はないのである。そのエネルギーの根拠はなにか。自分でもよくわからないというのが、私の答えである。

おそらく生徒さんたちもそうだと思う、そのわからなさに身をゆだねて歩んでいるうちに、何かが見えてくるものでしかない、というしかない。自分を信じ、謙虚に自信をつける。それが育っていないと、とてもではないが、他者など思いやれるはずもない。

昨日までは、感じなかったことを感じる、見えなかったものが見えるような気がする、その感覚を体感するためには、方法は愚直に続けるしかない。人間も(は特に)磨かないと錆びてしまう。





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