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2014-03-16

休日、穏やかな春の朝に、穏やかな日々を送れる幸福を妻とともに噛みしめる。

赤いローズ
一雨ごとに温かくなり、小さき人間がどんなにこざかしく抗おうとも、大いなる見えない宇宙の摂理の中で春は訪れる。私などただただ頭を下げ今を生きられることに感謝し、静かに生きるだけである。

あらゆる人為的環境汚染が進む中、我が家のささやかな庭先の花や植物も、咲きほころび生命力を私に告げている。中でもこの数年妻が丹精をこめて育てているクリスマスローズが見事に花をつけ、それをじっと愛でる余裕が今の私にはある。自然には嘘がない。ようやくにしてつかんだ妻との穏やかな晩年時間。

あらゆるかまびすしい報道や情報からは、出来る限り遠ざかり、土の近くで静謐に暮らしたいというのが、私の正直な心境だ。最近は何を(軸にして)信じたらいいのか、まさに混とんとして危うい時代状況だが、そんな時こそ、足元をきちんと見つめる。

自分に嘘をつかずに生きる、そのことを可能な限り見つけながら生きてゆきたいというのが、ささやかな、残りの自分の人生の願いだ。身の回りの小さき大切な人たちとの時間を優先して生きたいのだ。

何度も書いているが、これまでの自分の生き方(大いなる反省を含め)を、ようやくリセットできつつある、今の私の暮らしを、私は楽しめている。地球の自転のように、一日ゆっくりと寝て起きて自分と付き合いながら。

ともあれ話は変わるが、人を殺すための道具を、儲かるといった理由で、作って売るなどということが、白眉のもとにおこなわれる法律がまかり通る時代がきた。時代は進歩しているのではなく退歩しているのではないかという気さえしてしまう。技術の進歩と精神の荒廃。虚ろな(心から笑えないねじれた)肉体。

そういうことに関してきちんと意見を述べる、教養豊かな、言論人や知識人や芸術家のあまりの声の少なさには、いささか気が重くなる。私ごとき一庶民でさえ、先行きどんなことが起こっても、後の祭りになってしまう、いわゆる持ちたくはない、危機感を持ってしまう。一歩間違えば、取り返しがつかない危うい時代を我々は共有している。

自分たちの国さえ良ければとか、、自分の暮らしさえ良ければという、もうそういうのんきな時代ではない世界に我々は投げ込まれている、というのが偽らざる私の個人的な思いだ。核時代(我が国は原爆を投下された唯一の国である)の恐怖には震撼とする、またそのことに対する人間に与えられている想像力の枯渇にも私は震撼とする。愛(情け)、love、それぞれの民族に素敵な響きの音がある、その言葉を生みだした人類の英知にこそ、しがみついてゆく側に私は身を置きたい。

競争原理認識にもとずくグローバルな経済活動は、やがては大いなる付けが、我が身にも降りかかってくる、他者あってこその自分なのである。もともと太古には国という概念はなく、時間の束縛もなく、人間はおおらかに暮らしていたのに違いない、と私はおもう。陸も海も人もあらゆる生命がつながっていたのに、すべてがバラバラになって調和がとれなくなってきてしまったのでは、と単細胞の頭で考えてしまう。


その隣の白いローズ
歴史で習ったいわゆる四代文明は、すべて滅んでいるが、今どうやら私たちが営んでいる現代文明生活も、一歩判断ミスをすれば、行き着くところまでゆくしかないという苦い認識が頭をもたげる、時折不気味さを感じざるを得ない。

今の私は、天の下、畑で静かに身体を動かし作物の生育を眺める、その時が、なにはなくとも一番幸せなひとときだ。人間界の雑事からようやく解放され、波長の合う方々と穏やかに生活できれば、これ以上何も私には必要ない。

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