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2014-03-24

身近な母をお手本にして、これからの晩年ライフを生きる。

元気に働いているからだからなのだとは思うが、休日の朝は格別にやはり嬉しい。朝ぼーっと静かな時間コーヒーを飲みながら、ようやく白み始めた窓からは天に半月が見える。

22年働いた夢が原を辞して間もなく一年が瞬く間に過ぎようとしているが、この一年の転機はきっと記憶に残ることが多い日々、ということになると思う。

ささやかに生きてゆくことの中で、人はきっとおのれにしか分からない、摩訶不思議な人生模様を紡いでゆくしかないというか、天の定めで生まれおちた時代の中を、おのおのが必死で泳いでいるのだろう。宇宙遊泳感覚。

かくいう私もいい歳なれど、いまだその渦中を生きている。定年は世の中が決めること、私の場合多様な意味でいまだ現役感(何をして現役なのかを考えたい)が止まない。それは全くやったことがない、オーバーではなくこれまでの人生で培ってきたこととは、土俵が異なる世界(新しい世界に)に足を踏み入れたからだと思う。

でも又こうも考える。あらかじめこういう晩年世界を無意識に目指していたのかもしれないと。だからサンナンのA専務とも巡り合ったのだと。(無意識に思う、願う、ことの大切さを実感する)

定年になったら、最低生活で構わない、読書三昧の日々を過ごせたら言うことはないと考えていたが、その私の考えは農の仕事に出会ったことで大きく変わった。

実現不可能なことは書きたくはないので書かないが、現実感の伴う、新たな夢のようなものが生まれてきて、その実現はとても時間のかかることなので、先のことはあまり考えず、足元の大地を一日でも長く元気に踏みしめたいとの、今は思いだ。

話は休日に戻る。この一年妻との休日が過ごせるようになったので、最近は可能な限り妻との時間を優先するようになってきた。我が家の場合はそれに母が加わるので、3人で過ごすことが増えた。二人より3人でのデートの方が楽しいのである。

妻いわく、毎週母がことのほか3人で過ごすことを楽しみにしているというのを聞いて、私もできる限り休日を一緒に過ごすように心懸けている。
奥の方の野菜たち

もう私には、この母しかいないのでやれるうちに孝行しいたいのである。母が今も私たちにしてくれていることの無私の愛情の深さに、芯から私は驚いている。私の娘たちは二人とも、本当に母になついている。

思いやりとか、美辞麗句を口で言うことはたやすいが、それを実行するということがいかに大変なことであるかを、ようやくにして知る最近の私である。口先三寸のいわゆる似非知識人はもうまったく信じなくなった(本物は別)。

母は先の大戦、少女時代勉強どころではなかった世代。家は貧しく長女で高校にもゆかせてもらえなかった。艱難辛苦をくぐっているので、今が一番幸せと、口癖のように言っている。つくずく学ぶ、勉強するとは一体何を学ぶのであろうか。あまたの人間が大学を出ているが、(これ以上書く気がしないので止める)。

母は、自分のことより何よりも妻や娘、私のこと、家族を最優先に思いやる。そのことが生きがいというような稀な人である。ようやくにして、身近にこんなにも素敵なお手本がいるのだから。男だから母のようにはいかないが、人間としてほんのわずかでも学びたいと考えている。

いい歳の私が、たった一人心から甘えられる唯一の人(妻は別として)になりつつある。実の両親、義理の両親、頭の上がらない両親を持てたことの感謝は、【五十鈴川だより】にきちんと書いておきたい。

生まれてくる時代も、親も選べない。だからこそ感謝を態度で示したいのだ。母は、編み物や、洋裁がたいへんにうまい。私の痛んだ服や、ほつれたセーターなんかあっという間につくろってくれる。私の頭にかぶる毛糸の帽子も、10以上編んでくれている。

それに家庭菜園の見事さは、このブログでも何度も書いているので、今日は後で写真を撮ってブログにアップしようと思う。
菜園の全景10種類くらい植えられている

母は言う、お金より何よりも心が貧しくなってはならないと。言うだけではなくきちんと実行しているところがすごい。自分は質素倹約をしながら、要所要所の折には、孫や家族のためにおしみなく使うのである。

私は、母がつくろってくれた破れたジーパンを宝物のように愛用している。新しい車の座布団も、着なくなった皮のブレザーを裁断して、見事な座布団を作ってくれた。母は古い着なくなった衣類を再び蘇らせる、ものを大事にする。人間を大切にする。

なんでも使い捨てにし、人間でさえ使い捨てにするこのご時世に、大事に生きる、命を大事に使うということのなんたるかを、無言で私に教えている。母は私より20歳上、今から少しでも母を見習って歩まなくてはと、ようやくにして私は気づき始めている。

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