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2014-03-02

さりげなき穏やかな雨上がりの朝に思う。

我が家の菜園場を駆け巡るメル
昨日から我が家は急にがらんとしたふんいきになった。というのは、次女がニュージランドに2週間ホームステイに出かけたからである。長女は昨年春から東京で新生活を始めているし、もう数年たち、次女が我が家から出ることになれば、夫婦二人と犬のメルとの生活になる。やがて母と3人での。

椎名誠さんも書いていたと記憶するが、自分の子供と過ごす時間というものは考えてみるとそんなに多くはないのだ。まして働いていると、実質どれくらいの時間を娘たちと過ごしたかは、覚束できないくらいくらいに。

まして我が家は、女の子二人で事に思春期からは、母と娘は同性同士、親密な関係性が構築できるような気がするが、、男の私にはとんと共通の感覚を持てる話題が少なく、なんともはやうつろにさびしき思いをたびたび経験することが多い。

こんなことを書くと、そこはかと中年男の悲哀が漂う。男としての氏育ちによるなんとも制御不可能な思いに、時折茫然としてしまう。だがそのことを覚悟して、生きるという決意のようなものを、今のうちにしっかりと受け止めて、自律してゆく道を思索したいのだ。

幸い、農の仕事に就いたおかげで、何やらいい方向へ、自律晩年ライフに向かえそうな最近の我が暮らし、一年まえとはまったく異なる日々を送っている今現在が、ささやかに嬉しい。

以前も書いた気がするが、これまでの企画を中心とした生活には決別して(止めるのではなく)もっと、地面と向かい合う暮らしの中で、落ち着いた昔の生活を生きるお手本として、少しでも学ぶ時間をかぎられた中で増やしてゆきたいのだ。

これから先、すべてをスローライフに切り替えて行きたい。これまでなかなかできなかった料理をはじめ、ささやかにチャレンジしてゆきたいことが私にはある。もし自分が亡き父くらいの年齢まで生きることができたとしたら、先のことは分からないにもせよ、父のように静かに暮らしながらも、囲碁をしない私は、又異なる終章をと考えている。

私の生家は跡かたもないが、晩年まるで東京物語のように、老夫婦で庭先のしだれ梅を愛でていた姿が目に焼き付いている。いい意味での諦念の境地のような雰囲気が、二人の後ろ姿にはあった。

義理の母(この母には頭が上がりません)が昨日から泊まりに来ていて、テキパキと元気に朝から掃除をしてくれている。私もブログを書き終えたら、妻と3人で薪の積み替えをすることになっている。何気なくさりげない日々、穏やかに過ごせるということ、感謝。



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