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2013-10-26

姉からのはがき、兄からに手紙に思う、秋の朝


仕事から帰ってきたら、郵便受けに姉からの葉書がきていた。先日も兄から珍しく手紙が届いていたし、晩年姉や兄とゆったりとITではなくやりとりできる時間が訪れようとは思いもしなかった。

 

字体にはやはり個性が出るのだということが実によくわかる。元気で暮らしているとか、季節の移ろいとか、御達者でという、極めて普通の何げない文章が綴られているのだが、年々そんな何げない当たり前のことの、やりとりの重みを小生も感じるようになってきた。

 
先日、東京の長女に私も手紙を書いた。これからもITに逆らうわけではないのだが、可能な限り、娘にはとくに手紙や葉書をかきたいと思う私だ。もちろん娘だけではなく、友人や大切な人には、出来るだけ文字をかくという時間を大切にしたいと思う。

 
今は亡き母から頂いた葉書、そんなに多くはないが、今となっては宝のように感じる自分である。とくに亡くなる前の一年前位にもらった、最後の葉書は胸を打つ。きれいな字で書かれていて、病に侵されながらも病院の窓から眺める日没の素晴らしさが記されている。

 
小さいころ鬼のように思えた父と、いつもおっとりゆったりの慈母のような母の姿がまぶたに焼き付いている。苦労をしても悲観的にならず、5人の子供を育ててくれた母のことを思う。孝行したいときには親はいないと言うが、そんな言葉が沁みる季節である。

 
私も親になってみて少しは感じることなのだが、親は子供を選べないし、子供も親を選べないという真実。親子とはまことに不思議な縁で結ばれている。両親亡きあと、ようやく私も少し余裕ができてお墓参りを歳と共に欠かさずするようになった。

 
手紙の話に戻る。ITと手紙の共存バランスを私はこれから努めて意識的にやりたいと思う。今日、明日はお休みなので、上映会のPRに動き回る予定だが、姉と兄には返信を書こうと思う。

 
幾山川超え去りゆきて今がある、久しぶりの朝の青空を窓越しに眺め、秋の冷気を気持ちよく感じながら、ブログを打つ私である。変換ミスや、誤字の多い恥かき我がブログなれど、限られた人生の時間の個人的な今を、健康に綴れる平凡極まる幸せを噛みしめる。

 
今日は、義理の父のお墓参りにも往く予定、秋は亡き人々に静かに想いを寄せる季節だ。

 
あと数日で、ブログを書き始めてまる4年になる。

 

 

 

 


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