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2012-11-22

私に内省を迫る藤原新也さんのブログ


起きて先ほど、藤原新也さんのWMのブログを読んだら、石原慎太郎がベトナム戦争の取材に行った折、安全地帯の南ベトナムの米軍側から大砲を北ベトナム側に向かって、アメリカの副隊長から打ってみるかといわれ、そばにいたこれまた若き石川文洋カメラマン(氏は本物)が、貴方は打つべきではないと、止められるエピソードを初めて知った。たまたま砲撃中止命令が出て、打つことはなかったらしいのだが、自分は戦争の最前線にもいったことがなく、安全地帯から、物見遊山的な取材しかせず、戦争ごっこを楽しむかのような感性の持ち主が、国政の場に躍り出てまたもや暴走危険老人になろうかと画策している姿を、藤原新也氏は深く憂えている。

 

ことほど左様に、ほんとうに物事を冷静に判断し、深く考える力を、一人一人の庶民がしっかりと持たないと、流される。(もう流されきっている気もしている)日本というわれわれの国の指導者を選ぶ(人材の枯渇という国の不幸)ということに関し絶望的な気分になる。本当に危なっかしい国になりつつあるというのが、偽らざる私の認識だ。私は政治的なことや、経済的なこと、法律や制度システムに関してははなはだ、弱い人生を歩んできた。それでもこの国の国民のひとりとして生活しながら、それなりの関心は持って生きているのだが、自分は安全な側にいながら、無責任になにもしない(考えもしない、学びもしない)国民性というものは、年々いかんともしがたく増えてきているのではないかというのが、哀しいけれども(自分のことはさておき、書かせて頂きますが)私の認識だ。

 

なんとかなるだろう、誰かがなんとかしてくれるだろう、なんて時代はとうの昔に終わっているのだというのが、私の認識だ。だからということもないのだが、私は50代に入り、流行りの癒しの音楽や、口当たりのいい企画はほとんど、企画する気が起きなくなってきた。時代を深くとらえ、庶民に支持され、(されなくても)歴史の荒波に耐えてきた芸術や芸能、貧血企画者にならないように、先ず自分自身が元気を頂ける(学ぶ)ような企画をしてきた。

 

私ごときの企画に足を運んでくださるような、お客様に出会いたいという一念が、私の大きな原動力なのだ。現役で企画する限りは、観客に来ていただけるようにベストを尽くす、なにはなくとも、声を出したり歌ったりしてきた先人たちの生を楽しむ心意気を、何としても、私自身がしっかりと持たなくてはと、自戒の日々なのである。

 

やがてお迎えがやってくる、企画もなにもできなくなる、それは哀しいことでは全くない。内なる自分の自然をごまかさずに生きる。死を思い、考える。私も含め、現代人はあまりにも、物質まみれにすぎて、あるがままの自分の姿、時代の姿が、限りなく見えなくなっているのではないか、と。藤原新也さんの内省的な一文は、私に反省を迫ります。
今年2月石巻で見た風景から

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